書評

2018年2月号掲載

「信心不問」の仏教史

――南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』

高村薫

対象書籍名:『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』
対象著者:南直哉
対象書籍ISBN:978-4-10-302132-2

 私たち日本人の多くは、とくに仏教徒でなくともお葬式、お墓参り、仏像や古刹の拝観、坐禅体験などのかたちで日常的に仏教に出会い、仏に手を合わせることをする。それはつまり、そうして出会う仏教が、その人にとってそれなりの姿をしているということではあるだろう。けれども、世のなかには仏教と特異な出会い方をする人間もいて、たとえば母方の一族が全員、浄土真宗の僧侶と寺族(じぞく)という家に生まれた私は、物心ついたと同時に信心も菩提心もない自分を発見するという、尋常ならぬ仏教との出会い方をした。一方、子どものころから自分が自分である根拠が分からないという実存の不安に取りつかれ、十五歳で「諸行無常」なる言葉に出会ったのを皮切りに、「無我」や「空」を説く仏教を発見していったと語るのが本書の著者南直哉師である。真理など求めていないと言い切り、「死とは何か」「私が私である根拠は何か」と問い続けることがそのまま「無常」となり、実存となっているという師の仏教観もまた、尋常ではない。
 とまれ人があるとき仏教に出会う、その出会い方によって仏教の入り口も異なれば、何を求めるかによって仏教の姿自体も大きく異なってくるはずだ。しかしこの国では、全国津々浦々を見渡してもそんな差異はほとんど見出せないし、僧侶や仏教徒を名乗る人びとの口から己の信のかたちが明確に語られることもない。それどころか、僧侶は宗派を問わず一様に仏の慈悲や報恩を説き、衆生もまた一様に先祖供養と極楽往生と種々の現世利益を願って幾ばくかの喜捨をする、金太郎飴のごとき風景が数百年来、この国の仏教の姿であり続けている。加えて、日本人の多くは仏に手を合わせたついでに種々の大神や明神、権現などにも手を合わせ、さらには道端の地蔵やご神木やご来光にも手を合わせ、交通事故現場に出くわせば供えられた花にも手を合わせる。この日本的、アニミズム的信心深さにとくに引っ掛かりを感じない善男善女の読者諸氏には、本書で師がいまさら執拗に仏教史を覗き込む理由を、ちょっと理解しづらいかもしれない。
 ひるがえって、還暦を過ぎてなお信心に出会えず、善女になれなかった私のような人間には、師の思索の遍歴は、仏教を知る入り口としてこれまでも実に身近で切実なものだったが、結論から先に言えば、本書に至ってついに〈あ!〉と声が出た。それが何であるかは本書の白眉だし、ミステリー小説の犯人を先に明かしてしまうようなものなので、ここに直接書くことはしないが、「信じることができない」実存の根源的危機を突破する方法はある。世のおおかたの宗教においてもっとも難題となる信心の問題をいかに乗り越えるかについての、鮮やかな発想の転換が本書では提示されている、とだけ言っておこう。まさにそこに辿りつくための、ゴータマ・ブッダの無明の発見から道元の「身心脱落」に至る、南直哉流仏教史なのだ、と。
 ところでインドから中国を経て日本に公伝し、そこからさらに密教や天台本覚思想を経て鎌倉仏教にいたる師の仏教史観を要約すると、言語機能が発動させる人間の意識が不可避的に対象となる「実体」を求め、それが高じてやがて超越的な絶対者や理念が「空」「無我」に侵入してくる歴史である。その上で、たとえば絶対的存在となった阿弥陀如来を称名念仏という発声行為によって「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」の音に解体してみせた親鸞、あるいはブッダ本来の「空」「無我」をもっと直截的に取り戻さんとした道元の身体技法が語られる。ちなみに師曰く、ブッダが禅定によって思惟の停止と意識の解体ができることを自覚したときに発見したのも、「悟り」などではありえない。なぜなら「悟り」がなにがしかの対象を必要とする以上、「悟り」それ自体が不可能だからである。よって親鸞はただひたすら念仏することを求め、道元もまた、ただひたすら坐ることを求める。
 ここに至って、師はものすごい総括をしてみせる。「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、というのである。「悟り」も「涅槃」も認識不能だから、「自己」は仏にはなれない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである、エトセトラ。
 とはいえ、こんな文章に触れて、何か腑に落ちたように感じるのも錯覚ではあるのだろう。いかにしても言語を離れられない「邪見驕慢の悪衆生」を前に、現代の禅僧はまたしても手が届きそうで届かない仏の有りようを簡潔に提示して自若泰然としている。

 (たかむら・かおる 作家)

最新の書評

ページの先頭へ