TOP > 波 -E magazine Nami- > 書評・エッセイ

波

書評・エッセイ

特別企画

1978年のツービート

大ブレイク直前、40年前の漫才音源発掘!

和田尚久

たけし「こいつの兄貴は中学しか出てないんですよ。中学しか出てないのにいまじゃ立派な暴力団の親分なんですから」
きよし「なんてことを言うんだ! うちの兄貴はマジメだよ」
たけし「マジメですよ。酒は飲まない、煙草は吸わない、早寝早起き。仲間内では模範囚って言われてますから。最近は観音様を彫ってるという。そのうち本も出すらしいな」
きよし「永山則夫じゃないんだから!」

 ......雑音の彼方から、漫才師の掛け合いが聴こえてくる。音がこもっているので、二人の声をヒアリングするのは難しいが、数秒おきに起きる聴衆のはじけるような笑いが、現場の熱気を物語っている。
 ぼくがいま耳を傾けているのは漫才コンビ、ツービートのライヴ録音だ。録音されたのは一九七八年十一月三十日――四十年前ということになる。
 ビートたけしときよしの漫才コンビ、ツービートがブレイクするのは録音から二年後の八〇年。フジテレビが火を付けた漫才ブームの中心にいたのが、このコンビであった。
 漫才ブーム以前のツービートの録音はほとんど現存していない。熱心なマニアが発掘調査した結果、七八年十二月にNHKでオンエアされた演芸番組の高座が、このコンビの最古の録音とされてきた。
 ところが、いま、ぼくのパソコンのハードディスクに保存されている漫才の録音は、それよりもさらに古い。しかも、持ち時間や表現に規制のある放送用ではないスピリッツのままのツービートだ。
 これはツービートがはじめておこなった漫才リサイタル『マラソンギャグデスマッチ』の完全録音である。高田馬場の芳林堂書店で開かれたこのイベントは、漫画家の高信太郎が主催し、ツービートは彼らの持ちネタを総ざらいして、十数分の漫才を四席、演じた。のちに作成されるツービートおよびビートたけしの年表には必ず特記される重要な会だが、従来、録音は現存しないと言われていた。
 では、それがなぜぼくの手元にあるのか。
 自分でも不思議としかいいようのない、ことの次第を話してみることにする。

 時間は三十年前にさかのぼる。
 八〇年代の後半、高校一年生だったぼくは西船橋駅前のビルの二階にあった書店で一冊の文庫本を立ち読みしていた。『笑学百科』というのがその本で、そのころすでにいっぱしの落語マニアだったので、タイトルに惹かれて手に取ったのだと思う。ページをめくると、それは笑いに関するコラム集で、ビートたけしの深夜放送、談志と三亀松の立ち高座、内田百閒の小説などが、軽く、しかし確かな奥行きをもって論じられている。
 ひとつひとつの文章にイラストレーションがついていて、それも面白い。似顔絵がモチーフとなった人々を上品に捉えているし、ときに文章を相対化もしている。著者名は小林信彦、イラストレーションの作者は峰岸達といった。カバーにはアクリル画のウディ・アレンが描かれていて、ここに書くのはよいしょめくが、新潮文庫。その日から、『笑学百科』は毎日、愛読する本になった。
 十年ほどがたって、ぼくは放送作家などというものになっていた。八〇年代の文化で育ったので、高田文夫や景山民夫の存在に影響を受けたのだろう。それからはラジオ番組の台本を書いたり、雑誌に雑文を書いたりと、ただ茫々と時間が流れていった。四十歳を過ぎたあたりだったか。プライベートでも騒動がおきたりして、そろそろ放送作家の店仕舞いを考えるようになった。高田、景山の両人も「四十になって構成台本なんぞ書いてちゃいけない」と言ってなかったっけ。前から絵の勉強をしてみたかったので、デッサンの練習をして、多摩美を受験したら受かったので、二〇一四年に入学した。同時に、小さな個展や展覧会に足を運ぶようになった。
 その年、銀座のスペースで、大勢のイラストレーターが参加した展覧会をのぞいた。なかに、古今亭志ん生の絵がある。黒紋付のふっくらした志ん生が、風呂敷包みを担いだ仕草で、ネタはもちろん火焔太鼓。作者名は見なくてもわかった。あの峰岸達だ。その作品は販売もされていたのだが、すでに売約済の赤いピンが壁にささっていた。
 ちょっとの差で、志ん生の絵が買えたというのがショックで、部屋に戻って、作者の名前を検索した。そこで、峰岸達がイラストレーションの私塾を開講していることを知った。ぼくは入塾の案内を読み始める。

「ツービートが、まだ人気者になる前に、高田馬場の芳林堂で独演会を開いたことがあるんだよね。ぼくは友達と二人で観に行ったんだけど、そりゃ面白かったね」。
 峰岸達先生(ここから敬称をつける)の主宰する塾〈MJイラストレーションズ〉は二週間に一回のペースで講評会(授業)があり、そのあとは池袋駅近くの店に移動しての酒席になる。先生のはなしはイラストレーションだけでなく、映画や落語、歌謡曲、町の風景と縦横に広がる。この酒席に参加してはっきりとわかったのは、絵の名手は、対象を見る目がシッカリしているということである。だから、峰岸先生の人物評、芸人評はとても鋭く、それは作品世界と深く結びついている。
 二〇一七年の夏前だった。その日、先生はツービートの高田馬場リサイタルの話をはじめた。その会のことはもちろん知っているが、現場にいたというのは初耳だった。だが、本当に衝撃的な言葉はそのあとに続いた。
「そのとき、ぼくは家からレコーダーを持っていって、録音をしたんだよね。小型の録音機で、客席で録ったものだから、あまり音はよくないけど。そのテープが家のどこかにあるんだけど、和田君、興味ある?」。
 落語の火焔太鼓で、「ははぁ、あの太鼓に三百両の値が付きますか」という道具屋に、大名家の家臣が「いかにも、あれは火焔太鼓と申して世に二つという名器である」という件があるが、まさにそんな感じだった。峰岸先生は「家にあるはず」とサラリと仰るが、その値打ちに関しては、ぼくのほうがはるかに理解している。これは、ビートルズのキャバーン・クラブ時代の録音が発掘されたとか、そういうレベルの話だ。そして、この話を聞いたのがぼく以外の人間だったら、そのままスルーされていただろう。
 後日、手渡されたのは、両面で百二十分のアナログ・カセットテープだった。ぼくは信用できるエンジニアにリマスターを依頼した。エンジニア氏はカセットを分解し、磁気テープを露出させて、細心の作業をおこなった。やがて、録音は整音されたデジタル・データになって戻ってきた。

 ところで、ツービートの漫才を、人々はどれくらい記憶しているのだろう。
 きよしの誘いでコンビ結成をしたのが一九七四年ということだが、テレビなどで露出しはじめたのが七〇年代の終わり近く。八一年にフジテレビで『オレたちひょうきん族』がはじまった頃には、たけしはピンの活動に主軸を移していたから、大衆がその漫才を見たのは三、四年くらいのものではなかったか。
 ちなみに、七七年にはNHKの漫才コンクールに参加(最優秀賞はセント・ルイス)、七八年には『平凡パンチ』がインタビューを掲載しているので、『マラソンギャグデスマッチ』のころ、まったくの無名だったわけではない。
 ぼくは小学生だったのでテレビでしか見ていないが、やすし・きよしや阪神・巨人のほうが、ちゃんとした漫才だという印象を子供心に持っていた。だが、新しかったのはツービートで、いま聴いてみると、ありとあらゆる世の中のわざとらしさを笑う――たとえて言えばテレビのセットの壁をわざと外してスタッフや舞台裏を見切れさせてしまう、というような方法が面白かったのだろう。
 最高に楽しかったのはやはり「オールナイトニッポン」(八一年~九〇年)のトークで、小学校高学年になって聴き始めたころにやっていた「フロッグマン」ネタ。たぶん、ただの玩具なのだが、フロッグマンという土産物を海外で買ってきた、ただそれだけの材料が、ずっと笑える話になる。「カレーがうるさいコーナー」というのがあって、標準語で「この××が邪魔だ」というのを、足立区では「××がうるさい」と言った。それを面白がるという独特のセンス。言葉によってモチーフが姿を変えてしまうことの不思議さを、ぼくはたけしのトークではじめて知ったのだ。
 ぼくは一九七八年の録音を、その値打ちがわかる人間だけで聴く、試聴会を開きたいと考えた。新潮社の編集者、Mさんに相談をすると、うちの会議室を提供します、ということになって、十月十七日の夕方、新潮社別館の一室に招待者が集まった。
 峰岸達先生をはじめとして、高田文夫先生、水道橋博士、アル北郷、映画監督のYさん、新潮社の面々。スピーカーから音声が流れ出す。完全なブートレッグ録音だから音質は悪い。だが、ノイズの奥にあるのは、まぎれもなく、まだ三十歳そこそこの、あの二人組である。ストーリーのある漫才ではなく、小間切れのギャグがつぎつぎと投下されていくが、その言葉はひりひりとしている。はっきりしているのは、若き日のたけしの言葉には、強烈な異議申立ての感覚があることである。それはその頃の笑いや漫才のおかれていた地位を反映している。
 ぼくは、今ならば、おぎやはぎのようにリラックスした掛け合いが好きだが、ああした余裕のある芸は、たけしたちが勝ち取った地位向上によってはじめて実現したものだと、改めて思い出した。
 じっとして録音に集中する。一席目が終わって小休止すると、博士が「速いなァ」と呟いた。高田文夫さんは、藍色のセーターを着て、目をつむっている。幕間のコーナーに、人気があった若戸章(若人あきら、現・我修院達也)が出て「ハリウッド・スキャンダル」を物真似で唄いだす。高田さんが「ばかやろう、お前がスキャンダルだよ」と突っ込むと、そこではじめて会議室の空気がほぐれた。
 峰岸先生は、「当時は大笑いだったんだけどね。いま聴くと、なぜかシンとしちゃうね」と言うが、それはそういうものだろう。
 一九七八年のビートたけしは、その数年後に「オールナイトニッポン」で深夜のヒーローになることも、映画を監督することも、殴り込みで世間を驚かせることも、『アナログ』を書くことも、まだ知らずにいる。

たけし「えー、予想以上の招待券のみなさま、ありがとうございます。本当に、入場料の千円を払った人が少なくてね。おまけにマネージャーは五万円ほど持って逃げまして。楽屋の中で殴り合いの大喧嘩をしておりますけれど。とにかく今日の会場費をどうやってひねり出そうかと考えているところで」
きよし「おい! 切符買ってくれたお客さんもいるんだから」
たけし「今日もおばあちゃんが二人入っておりますけどね。何かの因果だと思って諦めてください。今年は日本の法律が変わりましてね。八十歳以上は死刑になりますからね」
きよし「なんで死刑になるんだよ」
たけし「しかし、おばあちゃんでもおじいちゃんでも気持ちの持ち方ひとつですからね。うちのばあさんなんかいま八十二ですけどね。頭なんか金髪にしましてね。口紅は真っ赤でね、こんな高いハイヒール履いて」......。

 (わだ・なおひさ 放送作家)