書評

2017年11月号掲載

これぞ、映画評論家の仕事

――町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』(新潮文庫)

松江哲明

対象書籍名:『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』(新潮文庫)
対象著者:町山智浩
対象書籍ISBN:978-4-10-121142-8

img_201711_18_1.jpg

 『ブレードランナー』を初めて観たのはテレビの深夜放送だった。正確には、小学生の僕にそんな時間に起きていることは許されなかったので、VHSに録画したのを翌日に再生した。テレビガイド誌にハリソン・フォードがビルの鉄柱に片手でぶら下がっているスチールが載っていて、彼の代表作である『スター・ウォーズ』のようなSFアクション映画であることを期待したのだが、それ(多くの観客同様)は裏切られた。しかし、あの世界を体験してからは数カットしか違いのない完全版のソフトを中学生にとっては決して安くない4000円という金額で買い、ディレクターズカット版が公開されれば友人を誘って新宿ミラノ座に行ったものの「何これ?」と言われてしまい、それでもDVD、BDとメディアが変わる度にソフトを購入しては満足する大人になってしまった。それは『ブレードランナー』が映像や音が鮮明になることで新たに「見える」映画であり、何層にも重ねられたレイヤーによって作られているからだと思う。故に誰もが繰り返し見、または語らずにいられない魅力をもっているのだ。
 本作は『ブレードランナーの未来世紀』でも最も長い文字数で批評されているだけあって、町山さんの強い気迫を感じさせる。特に「これは『デュエリスト/決闘者』の再現だ」「これは『エイリアン』だ」とリドリー・スコット監督の代表作と並べる箇所には、久々に読み返した今回も、鳥肌が立った。それは一人の評論家が何年もかけて作品を追い続けることで、作り手の逃れられない業のようなものを発見し、核心を突いたことが読者にも伝わるからだ。本書にはデヴィッド・クローネンバーグ、ジェームズ・キャメロン、デヴィッド・リンチ、オリヴァー・ストーンといった監督たちの、完成度や興行収入だけでは計れない、赤裸々な部分が露になった作品たちが批評されている。今はコメンタリー等で作り手自身によって解説されることが当たり前の状況になっているが、町山さんは本人も気づかないような作品のヒントを探す。それこそが評論家の仕事だと言わんばかりに。
 僕もドキュメンタリーの監督としてインタビューを受け、語ることも多々あるが、その言葉通りに受け止められたり、それを絶対とされることには抵抗を感じる。あくまでも作品に映ったものがすべてであり、観客の解釈が答え(のひとつ)なのだと思う。だからこそ町山さんは『ブレードランナー』を今、語る際には絶対にはずせない「デッカードはレプリカウントなのか?」という問題は、あえてあっさりと書く。それは監督の意図なのかもしれないが、最初の脚本家や主演俳優にとってはバカげた意見でしかない。本書は監督の作家性に重点を置いて書かれているが、それよりも重要視されているのは「映画そのもの」である。それは町山さんの全批評に共通する点でもあると思う。僕はそこが好きだ。
 本書に登場する作品のすべてを僕はブラウン管で見ている。80、90年代に映画を好きになった世代にとっては地上波のゴールデンタイムとレンタルビデオが映画との出会いのきっかけだった。そして番組の冒頭とラストには作品を解説してくれる映画評論家がいた。見所や裏側、そしてその人の解釈を限られた時間で教えてくれる。「あなたの心には何が残りましたか?」と問われても爆発しか残らないような作品もあったが、彼らは決して作品を否定しない。最近の町山さんの批評を読むと、そんな時代を思い出してしまうのだ。
 例えば『映画秘宝』の初期ではボロクソに(そして笑いを込めて)批評していたが、今は時代が違う。ネットを見れば分かるように、映画の感想はプロアマ同列に並べられ、絶賛または酷評といった強烈なものほど拡散し易い状況にある。それは現代にとっては必然なのだろう。だからこそ僕は膨大な資料を調べた上で、確固たる視点で書かれた長文の批評が必要なのではないかとも思う。それが映画評論の基礎だからだ。140文字の魅力もあるが、それは決して評論ではないし、なり得ない。本書を読むと、時代が変わってもなくしてはいけない、あるべき映画批評が残っていると思える。
 ブラウン管越しに映画を教えてくれる評論家はいなくなってしまったが、町山さんを信頼する読者は多いはずだ。僕はまだ見ぬ新作もかつて見た名作も、その魅力を「教えて」欲しいと待っている。

 (まつえ・てつあき 映画監督)

最新の書評

ページの先頭へ