書評

2017年11月号掲載

記憶の織物としての物語

――北村薫『ヴェネツィア便り』

藤原龍一郎

対象書籍名:『ヴェネツィア便り』
対象著者:北村薫
対象書籍ISBN:978-4-10-406613-1

 記憶は物語の断片を内包している。その断片が時に巧みに綴り合わされると、きれぎれだった記憶が物語を奏で始める。北村薫はそんな記憶から忘れがたい人生の物語を紡ぎ出す手練れの魔術師である。
 たとえば「高み」という作品。
 主人公は御厨(みくりや)という五十代後半のベテラン編集者。御厨は数年間の結婚生活を送った後に離婚して、今は独身。
 彼が年下の同僚から、エノケン主演の『エノケンの天国と地獄』というDVDを借りるところから、記憶の物語が発動する。ストーリーを読むとモルナールの「リリオム」という芝居を換骨奪胎したものらしい。独居のマンションに戻り、このDVDを見て御厨は泣いてしまう。そして、かつて読んだはずの『リリオム』の本を書棚から探し出して再読、この戯曲のテーマが結婚と離婚に関する「男の自己否定」であることを確認する。
 エノケンの相手役の若山セツ子という若い女優が気になり始め、彼女が戦後の東宝のニューフェースで、女学生役で注目されるも、その後、監督と結婚、離婚を経て五十代で自殺したことを知る。同時に同じワカヤマながら字が違う和歌山という苗字の小学校の同級生の女子の記憶がよみがえってくる。六年生の頃、御厨はその娘とジャングルジムで追いかけっこをした記憶がある。そして彼女は高校生の時に、バレーボールの練習中に急死していた。御厨は生まれた土地の県立図書館で地方紙のマイクロフィルムを検索して、その娘和歌山芳江の死亡記事を確認。彼女の葬儀が終わってしばらく後に「今日はミクリヤ君が遊んでくれたって嬉しそうに話していたんだって。お母さんが、お前にありがとうって」と母から告げられたことをも思い出す。
 一つの記憶から次の記憶に意識が移り、行動もまたそれにうながされながら、御厨は女性との距離の取り方の拙さを実感する。「自分が期待するほどの自分でないという思いが、自らを噛んでいる」こと、それが「傲慢過ぎる自尊心の裏返し」であったと。
 要はこれだけの話なのだが、読者である私の心の深い部分に主人公の御厨が感じているのと同質のとりかえしのつかなさが沁み込んでくる。個的な記憶の連鎖が普遍的な人生の苦みを誘い出すのだ。表現の魔法がここにある。
 十五篇が収録されているこの短編集の中で私がもっとも好きなのは『誕生日(アニヴェルセール)』だ。元亀天正の頃から続く真島侯爵家の双生児の弟、真島寿家の昭和二十年七月二十七日から三十一日までのクロニクル形式で綴られる或る種の因果譚である。
「心中をしようと、まあ、そういうわけだ。」との告白から始まり、お菊という女中頭へ、パリ在住の幼年期のフランス人女性の家庭教師へ、アルバン・ギヨーの写真集へ、そしてユイスマンスの小説へと主人公の思いは自在に飛翔する。寿家は結核で床に伏し、双生児の兄の輝美は軍人となり、嫡男として真島家を継ぎ、妻帯もしている。病床で寿家はボードレールやマラルメの訳で読んだポーの「大鴉」を思い、壁のギュスターブ・モローの絵「サロメ」を見て、再びユイスマンスに思いを馳せる。
 戦況はますます悪化し、七月三十一日、誕生日を迎える。身の回りの世話をしてくれている娘に暇を出し、寿家は重篤の身をベッドに横たえたまま自分と兄の名前を口の中で呟く。寿家と輝美......。ここからの謎解きは舌を巻く。
 久生十蘭の彫心鏤骨の短編小説を即座に連想した。仏蘭西的な衒学趣味、技巧をつくした修辞、みごとなストーリーテリング。この小説が十蘭の未発表作品だったと言われたら疑わない。これは誉め言葉なのだが、北村氏に叱られるだろうか。いや、してやったりと思うのではないか。
 表題作の「ヴェネツィア便り」は書簡体小説。といってもひねりの効いたそれである。二十代と五十代の女性の心理の綾が、ヴェネツィアというトポスを触媒として語られる。ヴェネツィアでなければならない必然の物語なのだ。
 漱石の「夢十夜」のみごとなパスティーシュ「指」。ホラー風味の愛の物語「ほたるぶくろ」、女性一人称の落語擬きの「くしゅん」、教養趣味あふれる夫婦小説「白い蛇、赤い鳥」、私のように短歌をつくっているものには涙なしでは読めない珠玉の小品「白い本」。どの一篇も読書の醍醐味、短編小説の真髄を味わわせてくれる。

 (ふじわら・りゅういちろう 歌人)

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