対談・鼎談

2017年11月号掲載

「ナボコフ・コレクション」刊行記念対談

巨象ナボコフの全体像が見えてきた

若島正 × 沼野充義

今年で没後40年を迎えるウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)。
ロシア語と英語を自在に操り、「言葉の魔術師」と謳われた天才の本邦初のコレクションを監修したふたりが、ナボコフの現代的魅力を語り尽くす。

対象書籍名:『ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック』
対象著者:ウラジーミル・ナボコフ/奈倉有里(訳)/諫早勇一(訳)/若島正(監修)/沼野充義(監修)
対象書籍ISBN:978-4-10-505606-3

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沼野 若島さんはこの九月に『アーダ』の新訳(早川書房刊)を出されたばかりですね。翻訳に十年かかったとか。

若島 ナボコフの作品の中で、僕は『アーダ』が一番好きなんです。でもそういう人はあんまりいませんね。

沼野 ナボコフの英語時代の頂点となる作品です。長大で難解を極め、研究者が寄ってたかって注釈をつけている。

若島 やりすぎなんですよ。それで『アーダ』は毛嫌いされる。ジェイムズ・ジョイスで言うと『ユリシーズ』なら何とかついていけるけど、『フィネガンズ・ウェイク』になるともう無理!みたいな。

沼野 それに、1970年代に邦訳された旧版を読んでも、残念ながらさっぱり面白さがわからない。だから日本の読者はこれまで、本当の意味でナボコフを読めていなかったと思うんですよ。今回、『アーダ』の本格的な新訳がようやく出たことの意義は大きいですね。

ナボコフの翻訳史

若島 ナボコフが日本で最初に翻訳されたのは、1959年に河出書房新社から出た『ロリータ』でした。前年にアメリカでベストセラーになった話題作として、いわば煽情的な興味から紹介されたんですね。それ以降、『賜物』『絶望』『マーシェンカ』といったロシア語時代の作品が次々とアメリカで英訳され、それを重訳する形で、1960年代から70年代はじめにかけて日本に入ってきました。これがナボコフ受容の最初期です。

沼野 昔の文学事典では、ナボコフはロシア生まれの「アメリカの作家」と紹介されていました。

若島 アメリカでは70年代に入るとポストモダン小説の研究が最盛期をむかえ、ナボコフはその先駆的な存在として虚構性や芸術性が強調されるようになります。日本でも1971年の「ユリイカ」特集で、丸谷才一さんと篠田一士さんが対談して、「ナボコフは単なるエロ作家じゃないんだよ、あと五〇年ぐらい経ったらわかるだろう」と語っています。

沼野 この特集でロシア文学関係の著者は川端香男里先生がひとりだけでした。

若島 それが変わってきたのがペレストロイカ以降で、ロシアでナボコフが解禁されてロシア語でも読めるようになり、母国でもナボコフ研究者がようやく出てくるようになったんです。

沼野 日本では、生誕一〇〇年にあたる1999年に「日本ナボコフ協会」が設立されたのが重要なターニングポイントになりました。私もお手伝いしましたが、英語の専門家とロシア語の専門家がひとつの学会でまとまっていくのって、簡単なようで結構大変なこと。学者はある種の縄張り意識を持った人達の集まりですから(笑)。

若島 最大の問題は、英語とロシア語の関係者間でナボコフ像にずれがあったことです。我々英語関係者は『ロリータ』『青白い炎』『アーダ』を最重要作と考えますが、ロシア語関係者は『賜物』が最高傑作で、英語で読んでおいたほうがいいのは『ロリータ』ぐらいか、みたいな。

沼野 それでもまあ、手前味噌ですが、世界最高レベルのナボコフ学者を毎年のように次々と招聘してきましたし、英語とロシア語、両方の知識がないと到底取り組めないような問題に、うまく協同して取り組んできたと思いますよ。

ロシア語からナボコフを読む

若島 そして今回、日本初のナボコフ・コレクションの監修を沼野さんと引き受けることになりましたが、『ロリータ』以外はすべてロシア語の原典からの翻訳というのが、最大の特徴です。

沼野 翻訳は重訳ではなくて原典訳というのが基本ですが、ナボコフの場合は少し複雑で、ナボコフ自身も英訳にかかわって、内容を改変していることもあり、ロシア語からの原典訳が最良とは必ずしも言えないんです。ただ、英訳とロシア語ではやっぱり感じが違っていて、今回のコレクションはロシア語作家としてのナボコフの味わいが訳文から伝わってくるのではないかと思います。これを単に優美な日本語に訳そうとすると、英訳との微妙な差異がなくなってしまうので、もしヘンな表現があったとしたら、ロシア語のごつごつした感じが伝わるようにあえて訳しているとお考えいただきたい。

若島 私は長篇三作目の『ディフェンス』を英語版から重訳したのですが、この頃からすでにセンテンスが異常に長くて、いわゆる「ナボコフ度」の高い文体になっていましたね。

沼野 ロシア語はどんなに長い文になっても文法的に修飾関係が明らかなので、どんどん文を後ろに継ぎ足せます。でも日本語だと文を分割しないととても理解しづらい。そこを敢えて分けずに翻訳するのが訳者の腕の見せ所ですね。

若島 ひとつのセンテンスは異常に長いのですが、分けるとナボコフの文章じゃないものになってしまいますからね。あと、普通は誰も使わないような非常に特殊な比喩がよく使われます。読者はこれどういうこと? としばらく考えて、別の箇所でようやく意味がわかる。ナボコフの読み方って、ナボコフの作品の中に書いてあるような気がするんですよ。作品の中にゲームのルールが書き込まれている、みたいな感じで。

沼野 ジョイスやトマス・ピンチョンも、同じく複雑な情報を詰め込んだテクストですが、作家は「勝手に読め」、といった感じで突き放していますよね。

若島 そうなんですよ。でもナボコフの場合は、作品のどこかに読み方の答えが必ず隠されている気がします。

沼野 詰将棋やチェスのプロブレムのように精緻につくられていて、鍵をうまく辿っていくと正解にたどり着けると。

若島 「この言葉は前に書いてあったな」という記憶が重要になるので、ナボコフを読むと頭のなかに何かがずっとひっかかり続けますね。ロシア語時代の初期からすでにこういった文体だったのでしょうか。

沼野 1926年に書いた処女作『マーシェンカ』が今回収録されますが、これは叙情的な、ロシア風の愛すべき小品と呼ばれていますけれど、比喩の使い方や表現がかなり独特で、そうすんなり読める文章ではないですね。ベルリンに亡命したロシア人の主人公が、初恋の女性マーシェンカに再会できると期待しているわけですが、最後には諦めてしまう。過去のロシアが全てと思いつつ、それではもう生きられない、亡命ロシア人としての母国との距離感。絶対そこには帰れないけれど心のよりどころとしては残っている、微妙な心情が描かれています。

若島 ではロシア文学史の中で、ナボコフはどう位置づけられるのでしょうか。

沼野 もちろんトルストイ、チェーホフ、ブーニンといった十九世紀末以来のロシア文学の流れを抜きにしてナボコフは語れないと思うんですね。ただロシア文学史を概観すると、ナボコフの散文は完全に浮いてしまっている。なぜかというと、1920年代にはロシアでもモダニズム的な動きが活発になって、ユーリイ・オレーシャやイサーク・バーベリといった実験的な作家が出てきましたが、スターリン時代に潰えてしまいます。ですからナボコフはロシア文学という太い幹から脇に出た枝には違いないのですが、本体の方がやせ細ってしまい、枝だけが異常に大きく茂った一変種という扱いですね。

戯曲と詩とチェス

沼野 今回のコレクションにはナボコフの戯曲が二篇入ります。ともに1930年代に書かれて実際に上演された『事件』と『ワルツの発明』。ナボコフが戯曲も書いていたことは一般にはあまり知られていませんが、『事件』はチェーホフやゴーゴリといったロシアの風俗劇の伝統を引き継いでいますし、『ワルツの発明』は政治風刺的なところがある。ストーリーも展開も結構面白いので、現代の日本でも上演は充分可能ではないかと思います。

若島 詩はどうでしょう? ナボコフはアメリカ時代にも詩を書いているんですが、最も問題なのは『青白い炎』の中に挿入されている詩ですね。この詩がはたして良い詩なのか、それともパロディとしてわざと下手に書いたのか......。

沼野 前衛的な小説家としてのナボコフとはかなり様相が違うというか、詩人としてはとてもクラシックですね。ナボコフとは知らされずにいくつかの詩を読まされたら、特に優れた詩じゃないと感じられるかもしれません。凡庸というと言いすぎかもしれませんけれど......。

若島 わかるような気がします。ナボコフは、詩と自作のチェスプロブレムを抱き合わせにした本を出していまして――。

沼野 いかにもナボコフらしいですね。

若島 ――でも、僕の評価では、チェスプロブレム作家としてのナボコフは、じつに凡庸としか言いようがない。

沼野 そうなんですか(笑)。

若島 ナボコフのチェスプロブレムは十九世紀のまま止まっているというか、二十世紀以降のチェスプロブレムの進展には全く興味がなかった人なんですね。絵画に対しても同じようなところがあって、よくジョルジュ・ブラックを「ガラクタみたいな」と皮肉ってキュビスムを馬鹿にしていました。たぶんナボコフは十九世紀の写実的な絵画観を基本的にもっていて、前衛を受け付けなかったのではないでしょうか。

拡張するナボコフ像

沼野 ナボコフの詩はまだほとんど日本に紹介されていませんし、未公開のオリジナル手稿や書簡が公開されるようにもなってきて、近年、ナボコフの全体像が拡張されつつあります。そういう機運の中で新潮社からコレクションが出るというのは大変時宜にかなったことだと思いますが、若島さんは今回のコレクションの魅力はどこにあるとお考えですか。

若島 ラインナップをみると、ナボコフの小説は今では絶版で読めなくなっているものが結構多い。むしろ読めるもののほうが少なくて、ようやく復刊する動きも出てきて、欠損が補われている時期に、ロシア語から新訳されることにまず大きな意義があると思います。

沼野 一度聞いてみたかったのですが、実際のところ、ナボコフの英語のレベルは、どうだったんでしょう?

若島 アメリカに渡ってきた当時、批評家のエドマンド・ウィルソンに『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』の原稿を見せて、英語のおかしいところがあれば指摘してくれと頼むんです。ウィルソンもそれに応じるんですけれど、ナボコフは直さなかった(笑)。

沼野 英語のネイティブの一流の読者に、「この英語はちょっと変じゃないですか?」と言われても、「これはこれでいいんだ」と突き返せるぐらいの自信がナボコフにはあったわけですか?

若島 うーん、それはわからないですけれど、訳していて変なところ、気になるところはしょっちゅう出てきます。

沼野 その点ではやはりロシア語で書くほうが特権的で、変な文章表現をやっても、誰に文句を言われても、お前のほうがロシア語をわかっていないと反論できる自信がある。それが力となって、ロシア語の可能性を究極まで使いこなすことを試みていたと思いますよ。

若島 それから、今回のコレクションでは、科学者、鱗翅(りんし)学者としてのナボコフの像を垣間見ることができますね。

沼野 捕虫網をもって走る写真のイメージが強くて、単なる蝶好きのコレクターの趣味人のように思われていますが、ナボコフは実は優秀な学者でした。今回の新機軸として『賜物』の巻に『父の蝶』を収録していて、これは『賜物』の続編として構想された、難解な蝶の論文に近い感じの文章で、ナボコフの生物学的蘊蓄(うんちく)がふんだんに生かされています。『賜物』に関しては、訳注を減らして読みやすくした改訂版とするつもりです。

若島 僕が担当の『ロリータ』については、ナボコフ自身がのちにロシア語に翻訳した際の違いがわかる注釈をつけようと考えておりまして、さらにその巻には、『ロリータ』の原型とされるロシア語時代の作品『魅惑者』も収録されます。

沼野 原型といってもまったく別の作品で、さらに推敲する必要があったかもしれない草稿ですので、かなり無理なロシア語を使っているんですね。ワイルドな比喩とかがでてきて、不思議な味わいです。既刊本は英語版からの重訳なので、ロシア語原典から、どのような訳文になるのか楽しみです。

若島 訳者の後藤篤さんはもともとロシア文学出身の英文学者で、英語とロシア語を両方ちゃんと読める方です。

沼野 今回の翻訳者陣は、我々より先輩も若い人も入っていますが、ナボコフ協会で切磋琢磨してきた仲間でして、こうしたコレクションを出せることが、二十年近く活動してきた一つの成果になっていると思います。ナボコフはそうそう簡単に訳せる作家ではありませんから。

若島 英語作家としてのナボコフとロシア語作家としてのナボコフは、どこがどういう風に違うのか。今回のコレクションで全体像を一望できるというのが本当に楽しみですね。読者にとっても、ナボコフのイメージがずいぶん変わってくるのではないかと思います。

 (わかしま・ただし 英文学者/翻訳家)
 (ぬまの・みつよし スラヴ文学者)

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