書評

2017年11月号掲載

大きな時計の文字盤の裏

――(語り手・詩)谷川俊太郎/(聞き手・文)尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』

池澤夏樹

対象書籍名:『詩人なんて呼ばれて』
対象著者:谷川俊太郎/尾崎真理子
対象書籍ISBN:978-4-10-401806-2

 文学はまずは作品、作者の姿はその陰に隠れていていい、という考えかたがある。書き手は自分の部屋で一人で本を書き、読み手は自分の部屋で一人で本を読む。この二人の間に作品以外の回路は必要ない。
 この厳格な姿勢はたぶん日本の文学が明治中期から私小説に傾きすぎたことへの反動だろう。作者という一人の人間を知る縁(よすが)として作品がある。だから善いこと悪いことすべてを正直に語るのが文学者として誠実、そういう流れがあって、時には露悪的にもなった。ゴシップ趣味は品がない。
 それへの警戒はわかるのだが、それでも人柄の魅力ということはある。何十年も谷川俊太郎の詩を読んできて、その背景に透けて見える本人の姿にやはり惹かれる。しかもこの人は小説家ではなく詩人である。フィクションと異なって彼は自分の魂にごく近いところで言葉を紡いできた。あれほどの作品群がどういうからくりで書かれてきたか、興味を抑えきれない。
『詩人なんて呼ばれて』では尾崎真理子による評伝と詩人本人へのインタビューが等価に扱われている。この形式がとてもうまく働いて、客観と主観、光と影の構図に立体的な像が浮かび上がる。
 この本の成功、まずは谷川俊太郎が伝記にふさわしい詩人だったということが大きい。若い時にあんなに目覚ましくデビューして、現代の日本語を縦横に使いこなし、時代の波をサーフィンしながらほぼずっと書き続けて、岸田衿子・大久保知子・佐野洋子などなど歴代の妻たちと格闘しつつ彼女たちから養分を得て、いつの時も詩人以外の何者でもなくて、そのくせ「何ひとつ書く事はない」(「鳥羽 1」)とか、「詩は/滑稽だ」(「世間知ラズ」)とか、自分の足元を掘り崩すようなことを言う。
 早い話がこの人はまことに魅力的なのだが、それは彼が自己完結しているところから来るのではないかと考えた。クールと言えばクール、冷ややかと言えば冷ややか。佐野洋子が苛立ったのがわかる気がする。あるいは彼はスヌーピーかもしれない。第一次大戦時のパイロットという夢想の中に住んでいるから、脇にチャーリー・ブラウンは必須ではない。「僕は相手がいなくても成り立ってしまう人だから」というのはつまりそういうことだろう。
 そのデタッチメントの姿勢を象徴するのが、今、一人で暮らしているという事実ではないか(と邪推する)。現在の日本で八十代なかばの男性が勤勉に働きながら自らの生活を律しているというのは希有のことである。これまで家の中にはその時々誰かがいただろうし常に円満だったわけではないとしても、詩はその場から一歩だけサイドステップを踏んだところで書かれてきた。ぼくはそう読んできた。
 更に遡れば、この人は最初から充足していた。文学は不幸や不満から出発するという世間の思い込みと無縁なところから出発した。だから初期には異星人と呼ばれたのだ。戦争と平和を考える詩人や労働者代表を自覚する詩人とは異なって、個人の思いをひらかなで綴ることができた。漢語と違ってひらかなはイデオロギーには向かない。
 尾崎真理子は一人の詩人の辿った道と時代相の変遷を精密に突き合わせる。それはとりもなおさずぼくらの世代の記憶でもある。その一方で時代と無関係にいつまでも残る名品二十篇を選んでみせる。このセレクションに異論を唱える者はいないだろう。自分も同じことをやってみたいとそそられるばかり。すべて選ぶとはそういうものであるけれど。
 これを読むうちに、谷川俊太郎とは大きな時計ではないかと思った。遠くからも見える高い塔の上でみんなのために(だいたい)正しい時刻を示してきた。そちらに目を向ければ目に入る。生きる指針として役に立つ。
 尾崎のこの本はその時計の文字盤の裏にあるメカニズムを、つまりたくさんの歯車や振り子や長い索で吊り下げられた錘(おもり)、それらをまとめている枠などを解き明かすものだ。それがおもしろくて熱心に読んだ。ぼくはラジオの回路図も好きだがこういう機械も好きなのだ。
 僭越を承知で自分とこの詩人を比べて、似ているところを一つ見つけた。「世界」という言葉を多用すること。それはつまり万事を自分対世界という構図で見ているからだろう。だが、思いが言葉を引き出し、言葉が思いの手を引いて走る、このウロボロスの運動能力は彼以外の誰にもない。

 (いけざわ・なつき 作家)

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