書評

2017年9月号掲載

宮部みゆき『この世の春』上・下 刊行記念特集

暗雲と春風

千街晶之

対象書籍名:『この世の春』上・下
対象著者:宮部みゆき
対象書籍ISBN:978-4-10-375013-0/978-4-10-375014-7

 現在のように精神医学・心身医学が発達していなかった時代において、心を病んだひとはどのような扱いを受けていたか。例えば中世ヨーロッパの魔女狩りでは、悪魔に憑かれたと見なされた犠牲者の中に、多くの精神障害者がいたと推測されている。日本でも、心の病という概念自体は古くからあったものの(「物狂い」などと呼ばれていた)、憑き物や怨霊が原因と見なされ、神官・僧侶や呪(まじな)い師といった宗教関係者の領域と判断されることが多かった。
 では、江戸時代に心を病んだ人間がいたら――しかも、その人間がやんごとない身分であったとしたら、どのような事態が起こり得るのか。デビュー三十周年を迎えた宮部みゆきの新作『この世の春』は、そのような仮定のもとで書かれた物語と言える。
 時は宝永七年(一七一○年)、江戸時代も半ば、徳川家宣が六代将軍に就任したばかりの頃である。下野北見藩二万石に起きた政変から、この波瀾万丈の物語は幕を開ける。若き六代藩主・北見若狭守重興(しげおき)が病重篤につき隠居、従弟の尚正が新藩主となり、それに伴い、重興の下で権勢を振るっていた御用人頭・伊東成孝が失脚したのだ。
 そんな藩上層部の諍いとは無縁に、領内の長尾村で隠居生活を送っていた元作事方組頭・各務(かがみ)数右衛門と娘の多紀のもとにも、政変の余波は及ぶ。伊東成孝の嫡男の乳母が、まだ幼い嫡男を救ってほしいと駆け込んできたのだ。伊東家とは縁がない筈の各務家が何故頼られたのかは謎だったが、数右衛門は乳母と幼子に、ある寺に落ちのびるよう指示する。伝わってきた情報によると、重興が藩主の座から退いたのはただの隠居ではなく押込(おしこめ)(家の存続のため、行跡の悪い主君を重臣の合議によって強制的に監禁すること)であり、原因は重興の心の病だという。
 やがて数右衛門は歿したが、多紀は再び藩の秘密に関わる騒動に巻き込まれることになる。父の弔いを終えた直後、彼女は従弟の田島半十郎により、藩主の別荘である五香苑へ連れて行かれた。領内の神鏡湖畔に佇むその建物は、今では「お館様」こと前藩主・重興の住まいとして使われており、北見藩元江戸家老の石野織部、医師の白田登らが座敷牢内で起居する重興に仕えている。そこで重興と対面した多紀は、彼の声色が時折、男児や女など複数のそれに変容してゆくことを知る(今日では医学的に説明可能だが、もちろん江戸時代にそうした概念はない)。しかし、資質英明な重興が何故心を病むようになったのか。
 ここで、多紀の亡母・佐惠(さえ)の血筋にまつわる因縁が明かされる。領内の出土(いづち)村には、繰屋(くりや)と呼ばれる一族が住んでいた。死者の魂を呼び出す「御霊繰(みたまくり)」の技を使う彼らは、その技を藩当局からも公認されたかたちになっていた。八歳で出土村を出て武家の養女になったため縁は切れていたが、佐惠も繰屋の血を引いていたのだ。だが十六年前、繰屋の一族は滅ぼされ、村は炎上したという。一族が御霊繰によって、何者かに都合の悪い事実を知ってしまったため抹殺されたのか。そのような大がかりな揉み消し工作が可能なのは、当時の藩主や家老など、藩の上層部しか存在しない。ならば、重興の異変は一族の怨霊の祟りによるものなのか。多紀が五香苑に連れて来られたのは、単に看護のためだけではなく、彼女が佐惠の娘ならば御霊繰に関する知識があるのではないかと思われたからだった。
 宮部みゆきの時代小説では、この世の理(ことわり)を超えた現象がしばしば描かれる。「霊験お初捕物控」シリーズの主人公・お初は自身の特殊な能力によって事件の真相に迫ってゆくし、「三島屋変調百物語」シリーズの主人公・おちかは、自身が聞き役となる「変わり百物語」で訪問者たちの語る怪談を聞き、その経緯で数々の怪異を知る。他にも『あやし』など、怪談的な時代小説がいくつかあるけれども、一方で『本所深川ふしぎ草紙』のように、怪談的なモチーフを扱いつつも合理的に絵解きされる作品も存在する。従って、『この世の春』の重興を蝕む異変にしても、心の病なのか、それとも本当に怨霊の祟りなのか......と、読者はどちらとも断定できず惑わされる仕掛けとなっている。
 重興の病の原因に迫ってゆくのは、主人公の各務多紀をはじめとする五香苑の人々だ。多紀は気丈さと優しさを併せ持つ性格で、好奇心が強い女性として描かれる。ただ、一度は上士(じょうし)の家に嫁いだものの、義母との不和が原因で離縁しており、その時の思い出が心の傷となっている(義母も時折、まるで別人のようになって多紀に暴力を振るっていたのだ)。憂愁に鎖された五香苑に吹いてきた春風のような彼女と身近に接することで、重興の心は開いてゆく。
 田島半十郎は、領内の作柄を調べて年貢や徴用の多寡を決める検見役(けみやく)を務める田島角兵衛の次男で、槍術の名手である。理の通らぬことを嫌う性格で、忠義心も篤い。自由に動きやすい部屋住の身であるため、過去に起きた出来事の探索が彼の主な役目となる。まだ若い彼に協力して情報を提供するのが老練な御目(おんめ)(治安を司る町目付の配下)である千竹(せんちく)老人だ。
 五香苑の館守である石野織部は、一見武士らしからぬ飄々とした人柄で、身分の低い者にも気さくに接するが、重興の亡父である先代藩主・成興の代から家老として北見家に仕え、重興の信頼も篤い忠義一筋の人物だ。重興の藩主就任直後、何故か実子を廃嫡して他家から養子を迎え、自身は家老の職を辞したことで藩内を動揺させたが、それも今回の件と関わりがあることだった。ある重大な秘密を胸に納めてきたことが、彼の負い目となっている。
 歴代藩主に仕えてきた藩医の家系に生まれた白田登は、医師だけあって登場人物の誰よりも冷静で理性的、現実的であり、重大な秘密を聞かされても動じない。心の病が専門というわけではないが、長崎で開明的な蘭方医術を学んだ経験があり、医学的アプローチから頼りになる存在である。
 五香苑には他に女中のお鈴とおごう、奉公人の寒吉や己之助(みのすけ)らがおり、こうした面々が重興の心を癒すべく立ち上がるのだが、十六年前に繰屋の一族が皆殺しにされたことからも窺えるように、秘密を暴かれたくない勢力も存在しており、その魔手が五香苑に迫ってくる。また、半十郎と千竹の探索により浮かび上がってきたのは、北見藩で十数年前、数件の男児失踪事件が起きていたという事実だ。しかも、それについて探っていたある御目の親分は妻もろとも、食あたりに偽装して毒殺された疑いがある。重興を取り巻く闇は想像以上に深いのである。
 怨霊説は一度否定され、医学的アプローチによる心の分析が後半のメインとなるが、そこでスーパーナチュラルな要素が物語から完全に取り除かれるわけではないのがこの小説の一筋縄では行かないところだ。合理的に割り切れるのか怨霊の物語として決着するのか、読者は最後まで翻弄されることになる。いずれにせよ、タマネギの皮をむくように少しずつ明らかになってゆく重興錯乱の遠因である怨念は凄まじいものであり、それがドミノ倒しさながらに数々の悲劇・惨劇を連鎖的に起こし、多くの人間の命が奪われてきた。この長年の宿怨を断ち切るにはひとりの力では不可能であり、五香苑の住人のみならず多くの人々の協力が必要だった。その過程で、人々は自分の心の奥底に秘めてきたおぞましい記憶から解放されてゆく。救済が必要だったのは重興に限った話ではないのだ。
 人格の変容を扱ったミステリは、国内・海外を問わず数えきれないほど存在している。第二次世界大戦後のアメリカでは、ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』、マーガレット・ミラー『狙った獣』、ヘレン・マクロイ『殺す者と殺される者』等々、人間の心の暗部を扱ったサスペンス小説が流行し、特にロバート・ブロックの『サイコ』はヒッチコック監督による映画化で知られている。一九八○年代から九○年代にかけてはサイコ・サスペンスの世界的な大ブームが起こり、その影響は日本のミステリ界にも及んだ。しかし、その大部分は現代(執筆当時という意味である)の精神医学の知見を大なり小なり踏まえて執筆されたものだ。江戸時代中期が舞台である以上、そうした知識のない多紀たちは各自に割り当てられた役目を中心に、手探りで真実に迫ってゆくしかないのだが、「江戸時代の人間ならこのような時にどう考え、どう行動するか」が極めて自然かつリアルに再現されている点が本書の特色であり、最大の読みどころと言えるだろう。『模倣犯』『楽園』等の現代物で悪の追求を絡めてサイコキラーを登場させた宮部だが、本作はこの流れを一歩押し進めたものと断言できよう。
 歴史上、乱心した藩主が隠居させられた例は実際にいくつも見出せる(更に遡れば平安時代、藤原基経が陽成天皇を退位させた一件を遠い先例と考えるべきか)。そうして隠居の身となった前藩主、前天皇らは、精神医学のない時代にどのような扱いを受けていたのだろうか。深読みかも知れないけれども、北見重興という架空の大名をめぐる物語を通じて、本書には歴史上の不幸な貴人たち、ひいては心を病んだあらゆる人々への鎮魂の祈りが籠められているようにも読める。
 本書を読んでいるあいだ、一番の謎として心に引っかかり続けるのが『この世の春』というタイトルだ。どす黒い秘密が渦を巻く本書の内容に似つかわしくないこのタイトルには、どのような意味が籠められているのだろうか。その謎もまた、読者をラストまで牽引する要素となっている。暗雲に覆われた五香苑、ひいては北見藩に、春はどのようなかたちで訪れるのだろうか。

 (せんがい・あきゆき ミステリ評論家)

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