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書評・エッセイ

神話と伝説の国へ誘う「古典」復刊

谷口幸男『エッダとサガ 北欧古典への案内』

新城カズマ

 古典、という言葉にはさまざまな定義がある――「往時に記され、長く後世に伝わる書物」「誰もがそこから重要な教訓を学べる書物」「当該分野を語るにあたっては必読の書物」等々。
 本書『エッダとサガ』は、それらすべてに該当する。
 初版刊行は一九七六年。著者・谷口幸男氏はドイツ語・古ノルド語・現代北欧諸語に通暁し、アイスランドに古くから伝わる物語「五大サガ」の翻訳等により藤村記念歴程賞を受賞している(敢えて喩えるならば、独力で平家物語・太平記・保元物語・平治物語・曾我物語を外国語に翻訳したというくらいの、とほうもない偉業である)。
 今でこそ我々は、ネットのおかげで、海外のデータを瞬時に探り当てることができる。しかし四十年前、そんな芸当は夢のまた夢だった。当時、一般人が容易に入手できたものといえば本書の他には岩波文庫の『ニーベルンゲンの歌』『ギリシア・ローマ神話』、角川文庫の『中世騎士物語』があったくらいだ。
 本書の豊富な内容と美しい文体に導かれて、北の最果てに横たわる神話と伝説の王国へ(実際に、あるいは空想の中で)旅立った若者は少なくなかったはずだ。のちに彼らが学問そして創作の道を志したとするならば、本書の価値は『解体新書』や『蘭学事始』に匹敵するかもしれない。
 もちろんその後、状況は好転した。この数十年間で、北欧にかぎらず世界中の神話伝説の入門書・概説書・専門書が刊行され、貴重な原典が紹介・翻訳され、現実あるいは架空の北欧を舞台とした無数の小説・漫画・ゲームが生み出され、現代の青少年にとって「雷神トール」「神々の黄昏ラグナロク」「ベルセルク」等の固有名詞は既に基礎教養の一部となっている。大学やカルチャーセンターには、神話伝説・北欧諸語はもちろんのこと、ファンタジー世界の架空言語を学べる場すらあると仄聞する。
 そうした豊かな出版状況の奥底にあるべき深い洞察を、しかし本書は忘れていない。四十年前のあとがきで著者は次のように記している。「(......)運命観や英雄主義の面からのみ古代中世ゲルマン人の世界を切って欲しくないと思う。(......)図式的観念的にヨーロッパ世界の成立をとらえる前に、ゲルマン人の実生活と信仰、社会と文化に一歩でも踏み込んだ考察の生れることが私の念願であって、本書がそのための刺戟にいささかでもなれば望外の喜びである」。神話伝説という壮麗な神殿の基礎には、生きた人々の暮らしが、不安と祈りが、さまざまな事物の交流が常にある。そのことを改めて学べるというだけでも、本書には今なお再読三読する価値がある。
 ちなみに「古典」にはもう一つ、皮肉な定義がある――「誰もが読んでいてしかるべきだが意外なほど読まれていない書物」。今回の復刊によって、この恐るべき黄昏の運命から、本書がまぬがれることを喜びたい。

 (しんじょう・かずま 作家)

谷口幸男『エッダとサガ 北欧古典への案内』978-4-10-603813-6