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書評・エッセイ

スパゲティーをゆでるどころではない

――ドナ・タート『黙約』上・下(新潮文庫)

吉野仁

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 これほどうれしい復刊があるだろうか。
 ドナ・タートのデビュー作にして青春ミステリーの傑作『シークレット・ヒストリー』が『黙約』と改題され、新潮文庫から刊行となったのだ。もともとの邦訳が扶桑社ミステリーより出版されたのは一九九四年のことで、長らく古書でしか入手できなかった。最近になって本書の評判を知り、復刊を待ち望んでいた人も多いと思う。
 そのきっかけをつくったのは、今回の文庫化に際して巻末解説を担当している村上春樹氏だ。この解説、『黙約』に関する話というよりも作者ドナ・タートとの交流を中心にしたエッセイのような内容ながら、興味深いエピソードにあふれている。なにより村上春樹ファンであれば、読者から寄せられた膨大な質問への回答をまとめた『村上さんのところ』で彼女の名前と作品名を幾度か目にしているにちがいない。
 たとえば、ガープ男と名乗る質問者は、スティーグ・ラーソン〈ミレニアム三部作〉を読み終え、この本は「スパゲティー小説(スパゲティーをゆでながらもつい手にとってしまう小説)」だと思うと述べたあと、「最近のもので春樹さんのおすすめのスパゲティー小説はありますか?」と尋ねていた。その答えはこうだ。
〈ドナ・タートの『The Goldfinch』はよかったですよ。とにかく面白い。(中略)だから今はとりあえず、彼女の前の作品『シークレット・ヒストリー』を読んでみてください。これもなかなかはまります〉
 残念ながら、これまでドナ・タートの名は日本でさほど知られていなかった。なにせ発表した小説はわずか三作。『黙約』は一九九二年の発表で、そのときドナ・タートは二十八歳、書きあげるのに八年かけたという。第二作『ひそやかな復讐』(扶桑社ミステリー 上下巻)は十年後の二〇〇二年に刊行され、第三作『ゴールドフィンチ』(河出書房新社 全四巻)はさらに十一年後の二〇一三年刊だ。ほぼ十年に一作。しかし欧米ではいずれもベストセラーとなり、権威ある文学賞を受賞するなど、高い評価を得ている。
 では、その『黙約』とはいかなる小説なのか。
 物語の語り手は、リチャード・パーペン。カリフォルニアから東部ヴァーモント州にあるハンプデン・カレッジに編入学してきた彼は、ジュリアン・モロー教授による古代ギリシア語のクラスを希望するも、すでに枠はいっぱいだと一度は断られたものの、クラスのメンバーと知り合うことから参加を認められた。グループのリーダーは語学の天才ヘンリーで、そのほか、ややクセのある性格で金髪のバニー、同性愛者のフランシス、双子の兄妹であるチャールズとカミラがいた。リチャードは、学識あふれる教授のもと、個性的な五人の仲間たちと濃密な学園生活を送ることとなった。だが、ある忌まわしい事件をきっかけに六人全員が次第に精神の均衡を失っていく。そして、さらなる悲劇が彼らに襲いかかった。
 本作が最初に日本で紹介された一九九四年、年末恒例のミステリー・ランキング海外部門第一位はスコット・スミス『シンプル・プラン』だった。ある犯罪を契機に関係者が破滅へと向かって行く展開という共通点がある。しかし本作が胸に迫る物語なのは生々しいほどの〈青春〉が描かれているからではないか。そこにあるのは、だれよりも優れた存在でありたい、人から愛されたいと望みながらも、現実に直面し、劣等感にさいなまれ、嘘をつき自分を偽ったり、他人を嫉妬したり、友人と反目したりする多感で自意識過剰であまりに愚かな若者たちの姿だ。ギリシア古典をはじめ文芸、映画、音楽など様々な話題が飛び交う知的な面白さ、事件をめぐるサスペンスの読みごたえもさることながら、全編にわたって人間模様の機微が細やかに描かれているのだ。そして待ち受けているのは衝撃的なクライマックス。まるで自分の身に起きた出来事であるかのような錯覚を覚えてしまう物語だ。
 海外ミステリーのファンのみならず、たとえば新潮クレスト・ブックスを好むような方にも薦めたい。読みはじめれば、たちまちその内容と展開に魅了され、スパゲティーをゆでるどころではなくなるだろう。

 (よしの・じん ミステリー評論家)

ドナ・タート著/吉浦澄子訳『黙約』上・下(新潮文庫)978-4-10-220121-3,22-0