TOP > 波 -E magazine Nami- > 書評・エッセイ

波

書評・エッセイ

そのまなざしにあやかることで。

――雪舟えま『パラダイスィー8』

平野紗季子

 めいっぱい働いて一生懸命生きていたらいつのまにか心が枯れてましたー、なんてことはよくあって、残業を終えて仕事場を出た瞬間ヒューッと夜風が吹き荒んで、あー今自分の中になんもない、ぞっとするほど空洞だって実感したりする。そうなってしまうとおしまいで、きれいなものを見ても「だからなに?」って感想しか持てなくなったり、もう空をずっと見上げていないなんてことになったり。
 一度失われた生命力を補うのは本当に大変。だからこまめな保湿はとても大切で、夜、眠る前に、雪舟えまさんの物語に自分の心を浸してみる。最新作は『パラダイスィー8』。収められた6つの物語には、失恋をして仕事ができない位ショックを受けた人のために給付金を出している街のお話や、睡眠不足の人の代理で睡眠をする仕事に就いた女性のお話など、すこしだけ風変わりな世界のささやかな日常が描かれる。
 登場人物にはちょっと弱いところのあるかわいらしい人が多い。そういう人が、人と関わることで、明るくなったりする。小さな勇気をつかんだりする。「なにが起こってるのかわからないんです」と、戸惑いながら失恋から立ち直る牧田戸素直さん。飛行船と出会うことで傷が和らいでいく弱(じゃく)。憧れの陶芸家と関わることで心に不思議な力が満ちていく、端(ずい)。人が人と関わりあうことでなにかが変わっていくことの力とその奇跡が、最強に鮮やかな手触りで物語には満ちている。彼らの心が明るい方へ導かれていく姿は、なんだか見ていてとても助かるし、励まされる。
 その過程に「強くなれ」とか「がんばれ」とかいう無責任はない。弱いところは弱いままで、人の心を本来の心に戻せるような機会を、雪舟さんは物語の中に作ってくれているのだと思う。興味深いのはそれが誰かの任意の優しさによるものだけではなく、時に社会にインストールされた制度となっているところだ。行政が執行する失恋給付金制度然り、社内福利厚生制度としての代理睡眠然り。繊細に編まれた優しさが社会を柔らかに包み込む姿は、想像するだけで前向きな予感でいっぱいになる。雪舟さんが思い描く、きぼうのスケールは、けっこう大きいのかもしれない。
 きっと雪舟さんは、この地球という星がわりと残念な感じだということを知っているのではないか。外の世界はとても殺伐、いじわるもあるし悪意もある。だからこそ大切なものと一緒に日々を日々のまま生きていくことは、それだけで小さな戦いなのだと。
 最後に収録された「愛たいとれいん」は、ほぼニートの楯(たて)が、鈍行列車で5時間かけて恋人を仕事先まで迎えにいくという、ただそれだけのお話だ。恋人に再会した楯は「家からどんなふうに来たの?」と聞かれて「幸せな感じで来た」と答える。"きょう一日いろいろな人と出会って景色を見てきたけど――いま胸を満たしているのは、とちゅうで感傷てきな気分になったりしつつも、全体てきにずっとうれしかったという感覚だ。一日がこんなふうに終わってゆくものなら、きっと一生もそうなんじゃないか。"
 今ここにある幸せが壊れやすいものだと知っているからこそ、雪舟さんは祈るようにその一瞬のきらめきを書き留める。そのまなざしは、過去も未来も地球も宇宙もあらゆる時空を往き来する翼のよう。そして気づくと彼女は私の隣に降り立って、これ食べなよ、と言ってきぼうの味の物語を気前よく分けてくれる。「私は見過ごしちゃったのに、いいんでしょうか」「いいよ一緒に食べようよ」と、お話の形においしく整えてそっと差し出してくれるのだ。ありがたいことに、一度からだに通したまばゆい感情は消えることがない。小さな宝石みたいになって心の隅にずっと残っていく。それがどれほど助けになることか。世界は残念ながら楽しいことばかりじゃないし、ろくでもないことが毎日起こる。手を伸ばしたところにある現実の手触りは、そんなものかもしれない。それでも朝目が覚めた時に世界は美しいものだと信じていられるような、小さくありふれた日常であっても生きていくことを肯定できるような、そんな勇気が胸の内から聞こえてくるのを私は静かに聴いていた。本を閉じてベッドに入る。きっと今日はぐっすり眠れる、そんな気がする。

 (ひらの・さきこ フードエッセイスト)

雪舟えま『パラダイスィー8』978-4-10-351121-2