書評

2017年4月号掲載

ふつうの街から生まれる「神聖」

――写真・藤田庄市 文・隈研吾、河合真如ほか『伊勢神宮』

都築響一

対象書籍名:『伊勢神宮』
対象著者:写真・藤田庄市 文・隈研吾、河合真如ほか
対象書籍ISBN:978-4-10-437902-6

 一時期、伊勢にはずいぶん通っていた。伊勢神宮に魅せられて、と書きたいところだが、そうではなくて伊勢と鳥羽にあった秘宝館を記録するためだった。
 ずっと昔は、日本でいちばん神聖な場所であるとともに、いちばんポピュラーな旅行先であったはずの伊勢は、僕が通っていた2000年前後にはすでにすっかり寂れ、神宮だけはずっと変わらずあって、訪れるひとが減っているわけでもないのに、取り巻く街並みがなんとも哀れな状態になってしまっているのが、解せなかった。去年、久しぶりに伊勢を訪れて、それは地元の若者たちが勝手に作った録音スタジオ兼ラウンジ兼クラブのような空間でトークを頼まれたのだったが、伊勢の商店街はさらにさびれが加速しているようで、神社界の頂点に君臨する伊勢のお膝元がこんなことで大丈夫なのかと心配になった。
 これほど立派な記録の集大成を、僕ごときが「書評」するなんておこがましすぎるし、美しく正しい写真の数々を眺めるだけで気が引き締まるけれど、ところどころに出てくる人間の顔に、僕は気を引かれた。
 昔ながらの装束を着けたひとびとが、さまざまな儀式を、厳かな表情で執り行っている。何百年前とまったく同じように。
 でも、決められた儀式が終わったら、このひとたちは装束を脱いで、Tシャツとジーンズとか、犬柄のジャージ上下とかに着替えて、軽自動車やママチャリで家に帰っていくはずだ。その前にマナーモードにしていた携帯を元に戻して、メールやラインをチェックしているはずだ。夜になれば居酒屋で「きょうのは大変やったね~」とか言いながら飲んで、そのあとはスナックでカラオケ熱唱タイムになるはずだ。24時間、神とともに生きているひとたちではなく、もちろん専門の神職の方々もいらっしゃるだろうが、ほとんどは「そのへんのふつうのひと」であるはずだ。
 そういう、神社を取り巻くひとたちが、日常の一部分を神宮に捧げることで、日本でいちばん神聖な場所が維持されてきたということが、僕にはすごく興味深い。宗教にはまったく知識がないので、確かなことはなにも言えないけれど、奈良の古寺や高野山のようなお寺から受ける印象とのちがいは、そんなところにあるのかもという気がしている。
 伊勢市駅を降りて外宮に向かう道すがらに見るのは、絵に描いたようなシャッター商店街だ。「伊勢神宮」という厳めしい名前と、目に映るストリートビューのギャップには、だれもが戸惑いを覚えるだろう。
 そのまま参拝を済ませ、ひと晩伊勢に泊まってみようと思うと、たいした宿泊施設がないのにまた驚くのだが、暗い商店街の裏手に見つかる居酒屋は意外にも大賑わいだったりする。ウーロンハイと焼き鳥で盛り上がってるオヤジ連中がいて、このなかの何人か、もしかしたら神宮のお仕事に関わってるのかもしれないと思うと、楽しくなってくる。
 僕が伊勢に通ったのは秘宝館のためだったし、かつては外宮と内宮のあいだに「古市」という日本三大遊郭のひとつが栄えていたのだった。そういう、ものすごいフトコロの広さというようなものが、日本人の宗教との付き合いかたにはあるのかもしれないし、見るからに神聖な伊勢神宮と、まるで神聖に見えない伊勢の街並みのギャップ、いや共存のありようにも、それが現れている気がする。
 いままで、これほど詳細な伊勢神宮の記録には出会ったことがない。式年遷宮はこれからも続いていくだろうが、本書はひとつの決定的な資料として長く残っていくはずだ。それと同時に、同じ「記録」という仕事に従事する身として(ぜんぜんレベルがちがうのでおこがましいが)、精緻に記録すればするほど、そこからこぼれ落ちていくなにかがあることも、この写真集は無言のうちに教えてくれている。
 それが「体温」なのか、神宮を取り巻く伊勢という街の「空気感」なのか、言葉であらわすのは難しいけれど、ひとつだけ確実なのは、「行ってみなくちゃわからない」ということ。だからこの本は最強の記録であるけれど、同時に記録でしかない。ずしんと重い写真集のページを繰って、それで「行った気」になる写真集ではなく、「行きたい気」にさせる写真集であることを、著者も望んでいるはずだ......と僕は勝手に思っている。
「次の式年遷宮」なんて待つ必要はない。ふつうの日の、ふつうの伊勢神宮に行って、ふつうの街で、ふつうのひとたちと飲む。そういう場所から生まれる「神聖」を、この本からあらためて考えさせられた。

 (つづき・きょういち 編集者)

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