書評

2017年4月号掲載

「夫」と「かれ」と「吉村」と

――津村節子『時の名残り』

松田哲夫

対象書籍名:『時の名残り』
対象著者:津村節子
対象書籍ISBN:978-4-10-134110-1

 今年、八十九歳になる津村さんの新しいエッセイ集が出た。
 津村さんと言えば、五十年以上連れ添った夫の吉村昭さんとともに歩んだ人生が語られることが多い。津村さん自身、吉村さんの没後に執筆した小説、エッセイなどは、ほとんど吉村さんに関わるものだと言っても過言ではない。
 最新エッセイ集は「夫の面影」から始まっているが、その後は「小説を生んだもの」「故郷からの風」など津村さんの歩みや思い出を綴ったものも多い。ところが、それらの文章にも、吉村さんは控えめな脇役のように、さりげなく登場している。全五十三篇のうち四十七篇に出てくるのだ。
 たしかにお二人は、学習院の文芸部での出会いから吉村さんの逝去までの五十五年間、ある時は夫と妻として、またある時は父親と母親として、そして何よりも文学を、小説をこよなく愛する者同士として、固い絆で結ばれていたのだった。そして、この本には、「吉村が亡くなって」「吉村が亡くなったあと」という表現があわせて九回も登場する。津村さんは、それだけ深い喪失感を感じていたことがわかる。
 ところで、このエッセイ集を読みながら、著者である津村さんが吉村さんのことをどう呼んでいるのかが気になった。まず、圧倒的に多いのが「吉村(吉村昭)」である。吉村昭の妻、吉村家の人間という立場で、本人に成り代わって語る。だから、自らの感情や判断を差し控えて、事実をきちんと伝えなければという気構えが痛いほど伝わってくる。
 次に目につくのが「かれ」である。おおむね、「吉村」という名前の連発を避けるために使われていることが多い。しかし、読み進んでいくと、不思議なことに気がついた。実は、津村さんが「かれ」と書くのは吉村さんだけなのだ。他の人の場合には「かれ」ではなく「彼」と書いている。こういうデリケートな気配りは、いかにも津村さんらしい。
 それとともに、「かれ」を使うときには、連れ合いとしての情のようなものがにじみ出ているようでもある。さらに言えば、そんなに多くはないが、「夫」という呼び方をしているところもある。これは「かれ」よりももっと身近で親しみが込められているようだ。
 たとえば、こういう文章を読むと「吉村」「かれ」「夫」の微妙なニュアンスの差がわかるだろう。津村さんが、朝起きて自分の目の異常に気づいた場面である。

 私は二階に駈け上り、
「眼が見えない」
 と夫をゆすぶり起した。急に起されたかれは、
「どうした。夢でも見たのか」
 と言った。
 ......
 吉村の開成中学時代の友人に医者が多くて......
(傍点引用者)

 そう言えば、津村さんの文章に、さりげなく登場してくる吉村さんは、要所要所で名セリフを聞かせてくれる。その中で、僕が思わず笑ってしまった言葉がある。
 芸術院では、各部の部長が、その年の受賞者を伴って御所に参上する。津村さんが受賞したとき、文芸の部長だった吉村さんはどう紹介したらいいのか困って、「この者は五十年わが家に住みついておりまして、本日も一緒に出てまいりました」と話すと、皇后さまが大変お笑いになったという。
 この時の吉村さんと津村さんの表情が目に浮かぶようだ。

 本書にも書かれているが、この三月二十六日に、吉村さんのふるさと荒川区の「ゆいの森あらかわ」内に「吉村昭記念文学館」が開館する。津村さんはもちろん、お二人にお世話になった僕たち編集者も、その日を楽しみにしている。

 (まつだ・てつお 編集者)

最新の書評

ページの先頭へ