書評

2017年3月号掲載

謎の扉を開ける「カリントウ」

――村上春樹『騎士団長殺し』「第1部 顕れるイデア編」「第2部 遷ろうメタファー編」

寺島哲也

対象書籍名:『騎士団長殺し』第1部 顕れるイデア編/第2部 遷ろうメタファー編
対象著者:村上春樹
対象書籍ISBN:978-4-10-100171-5/978-4-10-100172-2/978-4-10-100173-9/978-4-10-100174-6

 村上春樹さんの文字は、読みやすくて特徴がある。今月号の「波」の表紙は、著者直筆による最新長編のタイトルとサインだが、安西水丸さんと和田誠さんの名対談を思い出す読者もいるかもしれない。
 安西 締め切りもきちっと守るし、字はカリントウみたいで読みやすい。春樹君の字を僕は「カリントウ」と呼んでるんです。油で揚げたような字でしょ?
 和田 たしかに読みやすくて、いい字だよね。
 安西 ただ、油で揚げてるんですよ、サッと(笑)。
 (『村上春樹 雑文集』収録 解説対談「声はプラチナ、字はカリントウ」の項より 二〇一〇年十一月二十九日、青山にて)
 春樹さんの担当編集者になって三十年近く経つが、「カリントウの字」で印象に残る記憶が三つある。
 一つ目は一九八三年二月(春樹さんはネイビーブルーのダッフルコートを着て待ち合わせ場所に現れた)、新宿の喫茶店で初めて渡された手書きのエッセイ原稿五枚、二つ目は一九九五年春に神楽坂の新潮社クラブ二階で手渡されたMac用フロッピーディスクのラベルだ(モンゴルに取材旅行に向かう直前で『ねじまき鳥クロニクル』第3部「鳥刺し男編」と書かれ、長編一冊分のデータが入っていた)。「もしモンゴルの旅先で何かあっても、これが確定原稿だから」と真剣な表情でFDを託された時の情景は忘れられない。
 そして三つ目は二〇一六年の南青山。夏の暑さが残る月曜の夜だった(春樹さんは紺色のポロシャツを着ていた、と思う)。『騎士団長殺し 第1部/第2部』と書かれた封筒が目の前にあった(封筒の中には黒いUSBスティックが入っていた)。その瞬間、スリリングな「村上春樹の物語」が立ち上がってくるのを感じた。
「たぶん二〇〇〇枚くらいあると思うんだけど」、そう春樹さんに言われたが、言葉が出ないまま、数秒......。
『騎士団長殺し』!? 誰が誰を殺すのか、顕(あらわ)れるイデアと遷(うつ)ろうメタファーとは何だろう......。それは、いるかホテルや一角獣の住む世界、世田谷の路地裏にある井戸、それとも青豆が降りた首都高速三号線の非常階段にも通じているのだろうか。少し滲んだその文字は、もはや「カリントウ」ではなく、謎に満ちた物語の一部に見えた。
      *
 翻訳作品について少し触れておきたい。今回の長編小説と並走するように、「村上春樹・柴田元幸」の二人による復刊・新訳シリーズ《村上柴田翻訳堂》が新潮文庫から刊行されているが、春樹さんはトマス・ハーディ著『呪われた腕』(二〇一六年五月刊)の解説セッションで、この英国作家の細部の描写力に触れ、「風景描写がいい......ハーディを読み終えると、小説を書いてみたいなあという気持ちになる」とその魅力を語っている。
 そしてもう一冊。春樹さんの愛読書であるカーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』(村上春樹新訳、二〇一六年四月刊)の訳者解説文を紹介する――。
「読者はこの小説を読みながら、普通の生活の中ではまず感じることのできない、特別な種類の記憶に巡り会い、特別な種類の感情にリアルタイムに揺さぶられることになる」
 たぶんこの文章は、『騎士団長殺し』という物語を読んでいる皆さんの気持ちにそのまままっすぐつながるはずだ。
      *
 二〇一三年五月、「村上春樹 公開インタビューin 京都 ―魂を観る、魂を書く―」(河合隼雄賞創設記念として京都大学百周年記念ホールで開催された日本では十八年ぶりとなる講演会)と題された講演会の最後に、春樹さんはステージの椅子で居ずまいを正し、意を決したように語りかけた。
「僕は朝早くから起きて、夜は早く寝て、小説のことだけを考えて生活しています。手抜きはしない。それが僕の誇りです。僕の小説が好みに合わない人がいるかもしれません。でも僕は、一所懸命手抜きなしで書いています。それを分かってくれると嬉しい......」
 小説家村上春樹のほとばしるような決意を感じた瞬間だった。聴衆は小説家に深く温かい拍手を送り、その余韻がステージに残った。
 それから三年半余り、『1Q84』BOOK3刊行から数えて七年が経つ。騎士団長や謎を孕んだ奇妙な(ストレンジ)人物があらわれ、新しい物語が生まれた。緑濃い森の樹々が枝を揺らし、どこからか鳥たちの声が聞こえる。

 (てらしま・てつや 編集者)

最新の書評

ページの先頭へ