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対談・鼎談

「町田市民文学館ことばらんど」開館10周年記念 座談会

文士の子ども被害者の会 後篇

あんな父のもとに生まれた悲劇……のはずが、
聞く者をして思わず哄笑せしめる思い出話の連続です。

北杜夫長女 斎藤由香       矢代静一長女 矢代朝子 
阿川弘之長女 阿川佐和子    遠藤周作長男 遠藤龍之介 

阿川 遠藤さんはお父さんとして怖い側面はありませんでしたか?

遠藤 サラリーマンでも職場にいる時は怖い、うちに帰ると怖くないとかありますが、作家の場合は職場が自宅なものですから、怖い時と怖くない時の区別が子どもにはつきにくいんですね。間違った時に近づくと怒鳴られたりして、やっぱり怖かったですよ。

阿川 うちは怖くない時がなかった(会場笑)。ずっと一貫して怖かった。

遠藤 佐和子さんが書かれた『強父論』で一番感動したのが、お誕生日の時に何でも買ってやるっていう話でした。

阿川 あれは小学校一年か二年の時の誕生日なんです。父が急に「今日はおまえの誕生日か。よし、何か買ってやろう。何が欲しい?」って。え、私、何か買ってもらえるの? えーと、あれとあれとあれと......とか考えていたら、せっかちですから、「よし、うまいもの食いに行こう」。あっという間に、ご飯を食べに行くのが私のプレゼントだと決まって、まあ、しょうがないかと思いながら、父の運転する日野ルノーという車で出かけたんです。母が助手席、私と二歳上の兄が後ろに乗って。

 中華料理屋さんか何かに行って、食べてる間には珍しく事件が起こらなかったんですよ。子ども心にも無事にすんだなと思って、その店を出た途端に、誕生日が十一月なもので、ビューッと北風に当たって、私が思わず「寒い!」って言ったの。そしたら父がたちまち「何と言った」「え?」「寒いとは何だ。今日はおまえの誕生日で、おまえのために俺がわざわざお祝いに中華料理店でご馳走してやった。その父親に向かって、第一声が『寒い』とは何だ。ふざけるな!」って怒鳴り始めて、近くの駐車場まで怒鳴って歩いて、車に乗ってからも怒鳴り続けて、ずっと私がギャーッて泣いていても、まだ怒鳴りやまずに車を走らせて。

 普段の母は、父が激高している時はなるべく口を出さない方がいいという態度なんですが、あんまり続くので、「もういいんじゃないですか。佐和子もわかったと思いますよ」って口を挟んだら、「何だ! おまえは子どもの肩を持つのか。大体おまえの教育が悪いから、子どもがこんなことになるんだ。どういうつもりだ! 嫌なら出ていけ!」って車を急停車させて、母を降ろしたんです。

 子どもとしては、母ともうこれで生涯会えないと思ったんですね。ますます泣きだしたら、「うるさい!」って言われて、ウッウッウウッてしゃくり上げながら家へ着いて、兄と二人でお布団敷いて、寝支度を整えていたら、父がやって来て、「佐和子!」「はい、ウッウッウッウッ」「わかったのか!」。もう地獄みたいですよ。母はいないし、父は仁王立ちだし。「わ、わかりました」「何がわかったのか説明してみろ!」。なんだかわかんないので、とりあえず「ウッウウッ、佐和子がいけなかったです」「よし。寝なさい」。それで、しゃくり上げながら寝て、翌朝起きたら母がいたので、ああ、よかったと思った、という誕生日でした。

遠藤 壮絶なお話ですよね。

矢代 驚かない、私は驚かないですよ。

阿川 あ、矢代さんちも?

矢代 そういうの、わが家も日常茶飯事でしたから。うちの父もやっぱり自分中心で、もう自分が一番大事なの。父にとって一番嬉しい日は、原稿を渡した日と、自分の書いた芝居の初日がうまくいった時なんですよ。脱稿した日は朝からビール飲んでるし、初日が無事開いた夜なんかは、私たちが自分の部屋で勉強しているとドアをがんがん叩くのね。「パパはこんなに嬉しいのに!」ってドアの外で声がする。要するに自分のこんなに嬉しい日に、家族が静かってことはおかしいって発想なわけですよ。でも、こっちも試験前とかだと、「パパ、ごめん。勉強しなきゃいけないから」。そうするとね、北先生もそういうところがおありだけど、メモ用紙をドアの下に差し込んでくるんです。で、「パパは今日、嬉しい日」とか、子どもの手紙みたいなことを書いてくる。

阿川 ちょっとかわいいじゃないですか。

矢代 そういうところがズルイんです。妙に憎めない、みたいな手も使うの。

 結局、わが家の一番幸せな日は舞台の初日だと叩き込まれた子どもにとって、人生の価値は芝居に置くようになるんですよ。だから、私も最終的には芝居の世界に入るだろうなと考えて、父に反対されると思いながらも伝えると、「だったらもう大学なんか行くな。頭なんかあっても仕方ないぞ、女優は」。それで私は高卒で文学座を受けたんです。

「俺は最高の父親だ」の日

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写真提供:矢代朝子さん

斎藤 これは朝子さんとお父さまのドライブ中のお写真?(上)

矢代 父も若い頃から結核に何度かなっていて、先輩の文学者に勧められて軽井沢に行き始めたんですね。で、執筆中はしばしば、「うるさい!」と怒鳴られて、子どもたちは車に閉じ込められるんです。だから、この写真をよーく見て下さい。寂しそうな顔してるでしょ。

阿川 執筆中は車に閉じ込められるの?

矢代 父が執筆している時は、母は私たちを外で遊ばせていたんです。でも万策尽きると、手っ取り早く「車の中にいなさい」と。

阿川 うちも「うるさい」ということが父の癇癪の一番の原因だと幼い頃からわかっているから、もうヒソヒソ声でしか話さないんだけど、それでも突然襖がガーッと開いて、「うるさい!」。それで、何も喋っていなくても、「うるさい!」。え、と思ったら、「おまえたちがそこにいる気配がうるさい! 出ていけ!」。

遠藤 気配は消しにくい(会場笑)。

阿川 でも、矢代静一さんも相当自分中心な方だったのねえ。嬉しいなあ。

矢代 子どもたちが車に閉じ込められてかわいそうも何もないんです。で、次の写真が最初で最後の海水浴です(下)。

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写真提供:矢代朝子さん

斎藤 うちは父が「躁病、鬱病、夫婦別居、破産」とあったので、家族でドライブに行ったことも遊園地や海水浴に行ったこともないので、この矢代家の家族愛に満ちた海水浴の写真は羨ましいです。

矢代 ちょっと聞いて。母が撮っているから、母は映っていませんが、父だけ満足そうで、子ども三人はすごく疲れているでしょ? 妹(右端)は次女の強さで、ちょっと我関せず風ですけど。

 これは軽井沢から新潟の直江津まで、母の運転で海水浴に行った時です。道中ずっと、私たちは父がいつ機嫌が悪くなるか、いつ「帰るぞ」って言うか、そればっかり心配してたんです。だから、海に到着したらホッとして、もうどっと疲れてた。そんなに楽しそうじゃないでしょう? 父だけは「今日は家族と海水浴に来るなんて、俺は最高の父親だ、百二十点だ」って顔なんです。第一、父は体が弱くて、泳いだりしないし、運転もしないから、この写真の時にはもうビール飲んでいるんじゃないですかね。

阿川 でも、きっととびっきりの家族サービスをしたおつもりなんですね。

矢代 そう。だから、すごく充実した顔してるの(会場笑)。車の中でも、煙草は吸い放題で、お腹すいたとかトイレ行きたいとか、子どもより全然ワガママで。

阿川 朝子さんは、例えば自分からドライブ中にあそこ寄りたいとか、のど渇いたからジュースが欲しいとか言わないでしょ?

矢代 ああ、もうありえないです。

阿川 ありえないですよね。うちも車の冷暖房の温度設定の権利は父しか持っていなかった。

矢代 阿川先生は運転なさるけど、うちの父は運転もせずに、助手席で言いたい放題なんです。「もう行くの止めよう、引き返そう」とか。

阿川 お父さまから殴られたり蹴られたりってこともあるんですか。

矢代 殴るふりはしましたね。父は虚弱で、殴るだけの元気がないですからね。

阿川 私は蹴られましたけどね。

斎藤 ......人のお家の不幸なお話って、すごく楽しいものなんですね。心が救われます(会場笑)。

阿川 でも、北さんはお優しかったけど、ご苦労も多かったでしょう?

斎藤 父は躁病の時は「マンボウ・マブゼ共和国を作りたい」とか、いろいろなことを言うのでややこしいですが、鬱の時はすごく穏やかで優しかったです。

遠藤 躁鬱は季節物だったりしますか?

斎藤 夏に躁病になることが多かったです。以前、母に「パパと阿川先生とどっちが大変だと思う?」って訊いたら、「パパは一時的なものだから、やっぱり阿川先生かしら」と申しておりました(会場笑)。次の写真は軽井沢の遠藤邸での集まりです(下)。

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写真提供:軽井沢高原文庫

阿川 北さんや矢代さんのご一家に囲まれて。これ、遠藤さん何してるの?

遠藤 この時はこういうのに凝ってたんですよ(会場笑)。

斎藤 これは遠藤先生の広大な別荘ですから、写真に写っていないところに、「三田文学」の若い編集者の方たちがいらしたんです。遠藤先生が「最近ニューヨークで『モンキー・ドライバー』という歌が流行ってるのを知ってるかね」と仰って、「三田文学」の方たちも父たちも「知りません」と言ったら、遠藤先生が、「こんなに流行ってる歌を知らんのは作家失格、編集者失格だ!」と言うと、いきなり「お猿の駕籠屋だホイサッサ♪」と歌い踊られた。これはその光景です。

矢代 それ、レコーディングしましたよ。うちの父が歌う「すみれの花咲く頃」と遠藤先生の「モンキー・ドライバー」と北先生の浪曲が入ったレコードが出ています。

斎藤 矢代先生は宝塚を愛してらっしゃるので、こういう場では必ず最後に「すみれの花咲く頃」を歌われるんですけど、だんだん年ごとにバージョンアップして、最後は女装してドレスを着て、矢代家の別荘の階段から宝塚の大階段のように歌って降りて来られた。私は矢代先生とお目にかかるのは軽井沢だけで、ユーモアのあるお姿や、「朝子、友子」とお嬢さまたちに優しいお姿しか見たことがなかったので、先生がしばしば不機嫌になっていたなんて今日初めて知りました。

矢代 だから、子どもは戸惑うんですよ。執筆の最中は、お茶を出しに行って目があっただけでも怖い顔で睨まれたりするのに、お酒飲むと豹変するんです。

阿川 そんな楽しいことをしてらしたんですね、ご家族一同集まって。うちは招かれてなかったな(会場笑)。

矢代 でも、遠藤先生お出ましの大掛かりな宴会は、ひと夏に一、二回のことですよ。なにしろ遠藤先生はお忙しかったから。

「北杜夫全集」未収録シナリオ!?

阿川 次の写真は「劇団樹座」に北さんが出演なさった時のものですね(下)。劇団樹座は遠藤周作さんが主宰者となって、「いろんな劇団があるけれども、樹座は一番音痴なやつが主役を取れる、一番演技の下手なやつが主役を張れる」という劇団でした。大変な評判になって、入団希望者が続出し、ついにはニューヨーク公演まで行ったという......。

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遠藤 まあ、ニューヨークでも劇場は借りようと思えば借りられますから。

阿川 のちに遠藤さんが仰るには、「最近困ってるんだよ。劇団樹座のみんなが、何度か公演してるうちにうまくなっちゃってね。下手なやつが少なくなってきたのが問題なんだ。もっと下手な人をスカウトしなくちゃいけない」。

遠藤 樹座には父が考えたコピーがありまして、「やる者天国、見る者地獄」(会場笑)。まさにコピー通りでした。

阿川 私、「クレオパトラ」を拝見しましたけれども、遠藤さんが幕間に出てらして、「皆さま、大変申し訳ございませんが、クレオパトラになりたいという者があまりにも多いので、一場面ずつ違うクレオパトラが出てまいります」。

遠藤 痩せてたクレオパトラが急に太ったり、背の高いのが小さくなったり、よくよく注意して観ていないと筋がわからなくなる(会場笑)。

阿川 この写真の真ん中が北さんですね。

斎藤 父は樹座の舞台に「ハムレット」など何度か出ていますが、この時は父が大躁病の時で、台本にないセリフを好き勝手に言うので、看護師さんたちが舞台の袖に引っ張り込むという段取りでした。

遠藤 この舞台は一九八九年ということですね。当時私はまだテレビ局で駆け出しだったのですが、突然会社に北先生からお電話がありました。「龍之介君、頼まれていたドラマの台本ができてるから取りに来てくれ」と。これ、お願いしてないのです(会場笑)。

阿川 どうしたんですか、それ?

遠藤 上司に、こういう電話があったと説明して、急いでお宅まで伺ったんです。応接間に北先生がいらして、目の前に原稿の束がある。「頼んでおりません」とはとても申し上げられなくて、「先生、お願いした私が言うのも何でございますが、これはどんなお話でございましょう?」(会場笑)。すると、火星人の女と地球人の男の恋愛物語だというんですね。もう頭の中が真っ白になりました。必死で、「うちはいろんなドラマをやっておりますが、火星人はちょっと難しいかもしれません」。北先生は悲しそうな顔をして、「そうですか。もう火星人の女は加賀まりこに頼んでます」。何と、本当に頼まれていたんですよ(会場笑)。加賀まりこさんの事務所にお電話したら、北先生は加賀さんの事務所の社長をご存じだったらしくて、「ええ、北先生に言われまして、スケジュールを押さえてあります」。もう、どうしようかと思って。

 それで、北先生は「地球人の男は自分がやる」とも仰るんです。「先生、俳優というのは、朝から晩までずーっと収録が続くから、体力的に非常に厳しゅうございます」と申し上げたら、また悲しそうな顔をなさって、「それでは私、俳優は断念して、アシスタントディレクターを」「そっちの方がもっと大変です」。

阿川 結局、どうなったんです?

遠藤 ちょうどその頃、『世にも奇妙な物語』の制作が始まったばかりでしたので、「私、担当ではございませんので、『世にも奇妙な』の担当者を今度連れてまいります」と言った覚えがあります。それがこの写真の頃です。大躁病でいらした。

阿川 北さんに「週刊文春」のアガワ対談に出て頂いたのはもっと後ですよね。

斎藤 二〇〇〇年くらいかしら。

阿川 躁と鬱の周期がかつては季節物だったのに、お歳を重ねるにつれ、だんだん延びて来て、オリンピックと同じように四年に一回になり、それも延びて......。

斎藤 ついには十年に一度になって。

阿川 ずっと軽鬱の状態が続いておられて、北さんは「もうこの状態で死ぬんだな」と思っていらしたら、久しぶりに躁状態になられた。それで北さんからお電話があったんです。「佐和子ちゃん、僕を『週刊文春』の対談に出したまえ」。それはもうドラマよりずっと出て頂きたいじゃないですか。早速お出まし頂いて、その後、「出して頂いたお礼に」ってオークラのフレンチをご馳走して下さったんです。由香ちゃんも一緒にいらして。

斎藤 佐和子さんに失礼がないようにと、私は見張り役でついていったのです。

阿川 それで北さんが「佐和子ちゃん、キャビアにしよう」「やった!」とか言って、キャビアを頂いていたら、由香ちゃんが「十年ぶりの躁病で、どれほど家族が大変だったか」という話をしてくれたんですよね。お母さまと由香ちゃんが二人とも出かけなきゃいけない日、つまり北さん一人で留守番させる時は、また株とか買うと大変だから、電話のコードを抜いて使えないようにして、真夏なのに雨戸を閉めて出かけなきゃいけないの、とか。

斎藤 隣家の宮脇俊三先生の家に行って、証券会社に電話をするんですよ。

阿川 北さんが「なんで雨戸を閉めるんだ」って訊いてくるから、真冬だったけど、「台風が来るのよ」「そうか」。これで大丈夫だと思ってお出かけして戻ってきたら、北さん、株を買ってた。

遠藤 どうやって?

斎藤 窓の格子から宅急便の人の携帯電話を借りて、証券会社に電話したんです。父は携帯の使い方も知らないのに。

遠藤 もう「スパイ大作戦」ですね。

阿川 で、由香ちゃんがああなってこうなって、あれも大変、これも大変、それも大変って面白い話をいろいろなさって、その合間に北さんが「いや、僕は」とか何か言いたそうにするんだけど、由香ちゃんの勢いがすごいから、「北さん、後でまとめて伺いますから。由香ちゃんの話を全部聞いてから、反論とか付け加えることがあったら仰って下さいね」って言って、由香ちゃんの話が終わったところで、「はい、北さんの番です。今のお話に何かご不満ありますか」って伺ったら、「いや、由香の言ったことはほぼ事実です。ただ、僕は由香が躁病になったのではないかと心配になりました」(会場笑)。そんなユーモアは最後までおありでしたね。

遠藤 僕、ずっと不思議だったのは、北先生は精神科のお医者さまですよね。ご自身の躁鬱病をコントロールできなかったんでしょうか?

斎藤 躁病の時はすごく楽しいので治したくないんです。青い空がより青くなって、浪花節を歌って、絵を描きたいとなったら銀座の画廊で個展をしたり、大騒ぎしていました。実は母も私も深刻には心配してなくて、丸ごと父を受け止めていましたね。

阿川 さっきチラッと名前が出ましたが、国も作っちゃいましたもんね。

斎藤 日本から独立したいと、「マンボウ・マブゼ共和国」という国を作った。で、日本と同じように文華勲章も授与したいということで、遠藤先生に文華勲章を受けて頂きました。大悪魔賞というのもあって、「僕をたぶらかしたのは加賀まりこだ」と、加賀まりこさんまで授章式にご招待したので、フォーカスや新聞記者までいらした。庭で園遊会までしました(会場笑)。

矢代 遠藤先生はちゃんとお付合い下さるのが素晴らしいですよね。寛容というか、子どもの心をお持ちなんだと思う。

遠藤 友人とか、親戚のおじさんに子どもの心があるといいなと思うけど、自分の父親に持たれると迷惑な時もあります(会場笑)。

文士の子どもに生まれて

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写真提供:新潮社

 ――時間があと十分ぐらいになりました。最後のお写真です(上)。

斎藤 これは遠藤先生の没後十年の時ですから二〇〇六年ですね。阿川先生と父とで遠藤先生の思い出話の対談をした時のものです。父は一回も阿川先生から怒られたことがないままでした。

阿川 北さんには本当に優しいんですよ。「マンボウ、つらいかい? 大丈夫かい?」。その愛を少しこっちに(会場笑)。

斎藤 阿川先生は茂吉の歌がお好きでしたね。だから父がヘンテコでも優しかったのです。この対談の時も、阿川先生が茂吉の歌をいくつも諳んじてらしたのを覚えています。

遠藤 この写真、私は後ろのお二人が痛ましいなと思って見ております。この笑顔は、作家の子ども独特の営業スマイルですね(会場笑)。

阿川 やはりフジテレビの取締役にもなると営業スマイルがわかるわけですね。

斎藤 そういえば、父のセリフでみなさんにお伝えしたい言葉がありました。その昔、父が株の売買をするので、その度に母から、「いい加減にして下さい。茂太お兄さまも輝子お母さまもみなさん心配してらっしゃるのよ!」と言われるたびに、必ず「遠藤さんの家を見ろ。阿川さんの家を見ろ。うちよりもっとひどいんだぞ!」って言うのです。それを私はずっと子どもの時から聞いてきたので、「うちよりもっとひどいおうちがあるのだ」と、佐和子さんを心の支えにしていました。

阿川 申し合わせたわけでもないのに、うちも同じです。父は突然感情が抑えられなくなる時があって、自分でもこんなに怒るはずじゃなかったのにっていうくらい怒り続けて、家族が泣いたり、お膳をひっくり返したりした後で、「だけど、おまえ、しょうがないんだよ。俺の仕事はヤクザな商売なんだから、これでも文士の中では相当まともな方だと思う。遠藤の家を見ろ。北の家を見ろ。あそこよりよほどましだ」というのが口癖でした。

矢代 うちの母の口癖は「我慢してパパに書かせなきゃダメなのよ」でした。

阿川 それはすごい。お母さまは出ていったりせずに、ずっと我慢なさって?

矢代 母はプチ家出みたいなのはしましたけど、でも、とにかく宥(なだ)めすかしてパパの機嫌取って、書かせなきゃうちは生活できないのよ、と。その影響で、私も子ども心に、今思えば健気で泣いちゃうんですけど、「私が我慢すれば、パパはいいセリフが書けるんだ」って本気で思っていたんです。というのは、実際に舞台を観ると、「ああ、私が我慢したから、こういうセリフになったんだ」って思えるんですよ。そう思わせる空気が作家のうちにはあるんでしょうね。

 ――お話は尽きませんが、そろそろお時間になりました。面白いお話もたくさんありましたが、感動的なエピソードもいっぱい伺えました。

阿川 感動して頂くような話はなかったと思いますけどね。ただ、ここにいる四人は、今日お話ししたようなひどい目に遭いながら、それを笑って話せるというセンスをそれぞれの父に植えつけられたんじゃないかという気がします。生きていく中で、どんなに嫌なことがあったり、嫌なやつがいたり、仕事が面白くなかったりしても、それをどうやって笑いにひっくり返すかってことに執念を燃やすように躾けられた気がするんです。それはまあ、有難いことだなと思いますね。

遠藤 このバラバラな話をどうやってまとめるのかと心配していましたが、さすが座談の名手阿川さんですね。いい締め括りで感動しました(会場笑)。

 開催・町田市民文学館ことばらんど

 (あがわ・さわこ 阿川弘之長女)
 (えんどう・りゅうのすけ 遠藤周作長男)
 (さいとう・ゆか 北杜夫長女)
 (やしろ・あさこ 矢代静一長女)