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書評・エッセイ

フユノニッシ冬の日誌

柴田元幸 訳/ポール・オースター

2,052円(税込)

いま語れ、手遅れにならないうちに。肉体と感覚をめぐる、あたたかな回想録。

幼いころの大けが。性の目覚め。パリでの貧乏暮らし。妻との出会い。自動車事故。暮らしてきた家々。記憶に残る母の姿と、その突然の死。「人生の冬」にさしかかった著者が、若き日の自分への共感と同情、そしていくぶんの羨望をもって綴る「ある身体の物語」。現代米文学を代表する作家による、率直で心に沁みるメモワール。

肉体はすべてを記憶する

――ポール・オースター『冬の日誌』

小川洋子

 もうすぐ六十四になろうとする作家が、過去の自分、"君"に向かって語りはじめる。語り手が見つめているのは、君の肉体に刻まれた、苦痛、恥辱、悲嘆、快感、幸福等々の記憶、あるいは文字通りの傷跡であり、そこから視線がぶれることはない。
"君の体は心が知らないことを知っている......"
 この言葉が、本書の核心を象徴していると言ってもいい。自分の感情を持て余し、混乱した心理状態に陥ると、君の体は変調をきたす。恋人と別れ、一人でパリへ旅立とうとした時には激しい胃痛に倒れ、突然、母を失った直後には、パニックの発作に襲われる。たとえ心が言葉をとらえきれずに行き場を失っても、肉体には確かな痕跡が残る。オースターはそうした跡を一つ一つ、丁寧に掘り返してゆく。
 オースターの編集した名著『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』が、無名な人々の物語の断片がアメリカ社会を構築していると証明してみせたのと同じように、本書は肉体的記憶の断片が一人の人間を形作っている、という真理を実感させてくれる。とにかく、掘り返される痕跡のすべてが、魅力的な物語なのだ。君の全存在を受け止める「一人キャッチ」。天使の救いにより折れずに済んだ、完璧に美しい妻の首。信じがたく安い治療費しか請求しないプロバンスの歯科医。生まれて初めて君が捨てた本の束。レフトのはるか頭上を越える母のホームラン。幻想の野球ゲーム。あらゆる場面が体温とともに読み手の肉体に移植され、鮮やかな感覚を呼び覚ます。空に描かれる白いボールの軌跡や、本が押し込まれた生ゴミの臭いや、秘密の宇宙に保存される試合結果の数字が、ありありと浮かんでくる。それらが何を意味するのか、知る必要も感じないまま、言葉さえ届かない世界の深みに身を浸している。心のドアではなく、肉体のドアから入った方がより遠い場所までたどり着けることに、気づかされる。 
 心と肉体の他、もう一つポイントとなるのは、言葉と肉体の関係だろうか。真夜中のパリで、電話交換手の仕事を終えた君は、誰も待っていない部屋に帰る怖さに耐えきれず、一人の娼婦、サンドラと過ごす。ベッドの中で君が、詩を書いていると告白すると、不意に彼女がボードレールの詩の一節を暗唱しはじめる。詩とはつまりこういう時のためにあるのか、と思わせる、本書で最も印象的な場面だ。娼婦の声は君の人生に特別な一瞬をもたらす。ついさっき味わった肉体の快楽などあっさりと蹴散らされ、そこにはただ、詩の言葉の響きだけが満ちている。
 また別の局面では、全く逆のことが起こる。離婚して定職もなく、一年以上一篇の詩も書けない状態に陥っていた君は、ある日、友人の誘いで創作ダンスの公開リハーサルを見学する。ダンサーたちの優美さと活力に感動した君は、振付師が踊りについて解説をはじめた途端、肉体の前でいかに言葉が役に立たないかを思い知る。ダンサーたちが無言で表現したものの十全さに比べ、言葉は無力なのだ。ここで不思議な転換が発生する。"世界と言葉とのあいだにある裂け目"に自分が墜ちてゆくのを感じるのだが、そこにあるのは絶望とは正反対の、"自由と幸福の感覚"だった。そして再び君は、言葉の世界に戻ってくる。
"とにかく書くことができる限り、どこでどう暮らそうと違いはなかった"
 肉体的記憶によって再構築された一人の男の人生に寄り添って感じるのは、君はやはり書く人間なのだ、という事実だ。書きたいと願う思いはいつでも、あやふやな観念ではなく、確固とした、時に痛みを伴う肉体の感覚とつながっていた。君の肉体を探索することはつまり、君の言葉を発掘する旅でもあった。
 最後に一つ。肉体について語ろうとすれば、おのずとそこには際どい秘密も絡んでくる。オースターはそのあたり、こちらがはらはらするほどの素直さを発揮している。特に少年が、ある時青年に成長し、餓死するほどの性的欲求を覚える過程が興味深い。男の子はこんなふうにして大人になるのか、と初めて知ったかのような新鮮さがあった。自分の一部に、憧れの消防士のヘルメットを発見する五歳の君を、私は思いきり抱き締めたかった。

 (おがわ・ようこ 作家)

ポール・オースター著/柴田元幸訳『冬の日誌』978-4-10-521718-1