書評

2017年2月号掲載

今月の新潮文庫

ものさしを持って揺れる男

飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ 辞書を編む現場から』

永江朗

対象書籍名:『三省堂国語辞典のひみつ 辞書を編む現場から』(新潮文庫)
対象著者:飯間浩明
対象書籍ISBN:978-4-10-120676-9

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 中学生になるとき、叔父が辞書選びのコツを教えてくれた。書店の辞書売り場に行き、複数の辞書で同じことばを引く。「読み比べて、いちばん好きなことばで書かれている辞書を選ぶといい」と叔父はいった。それまで辞書なんてどれも同じだと思っていた。辞書にはそれぞれ個性があるのだ。
『三省堂国語辞典』、通称『三国(さんこく)』は、新語に強く、わかりやすい辞書として定評がある。学者芸人のサンキュータツオによると、人間にたとえれば「親切で気のいい情報通」というキャラクター(『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』)。『三国』は「生の情報を仕入れるのが上手い」「面倒見がよくてやさしい」「辞書の引き方も丁寧に教えてくれる」のだそうだ。
 飯間浩明著『三省堂国語辞典のひみつ』は、この『三国』の編集委員によるエッセイである。『三国』がどのようにつくられているか、辞書の使い方、そして楽しみ方などが書かれている。
 三浦しをんの小説『舟を編む』とそれを原作にした映画の影響からか、辞書編集者はちょっと変わった人が多いというイメージがあるが、この著者もその期待を裏切らない。
 たとえば「ライター」の語釈を書くために百円ライターを分解する。第5版までの「発火石をこすってタバコの火をつける器具」という記述に疑問を持ったからだ。電子式ライターはどうなっているのか。徹夜で分解と観察をしたけっか、第6版からは「発火石をこすって」の部分が削られた。
 あるいは「共振(きょうしん)」ということばの語釈を書くために実験をする。裁縫用ものさしの両端に長短の糸をつけ、ピンポン球を吊す。ものさしを水平にして持ち、体を左右に揺らす。ゆっくり揺らすと長い糸のピンポン球が揺れ、速く揺らすと短い糸のピンポン球が揺れる。「ある振動数の振動が外から加わったとき、いっしょになって大きく振動すること」という文章になる。
 ピンポン球を吊したものさしを持って揺れる男。事情を知らない人が見たら怪しい人である。でも、『三国』の簡潔な語釈の一つ一つにこんな苦労があったのかと驚くとともに、ちょっと感動もする。数ある国語辞典のなかで、『三国』の特長は「要するに何か」がわかることだと著者はいうが、「要する」のは大変なことなのだ。本質を抽出して適切なことばに置き換えていくのは、詩歌の世界に似ている。
 辞書は数年ごとに大規模な改訂をおこなう。『三国』の初版が出たのが1960年12月で、以来、6~10年の間隔で改訂されてきた。現在刊行されているのは2014年1月に出た第7版。どのようなことばを新たに採録するかが改訂での大きなポイントとなる。いくら新語に強い『三国』といっても、なんでもかんでも受け入れるわけにはいかない。どれだけ広く使われているか、定着しそうかどうかなど、さまざまな観点から検討する。また、新たに入れることばもあれば、除外されることばもある。
 たとえば「ナウい」をどう扱うか、改訂のたびに議論されてきたという。著者によると、「現代的だ」という意味での使われ方は1970年代終わりからの数年間で、最盛期は2~3年程度だったそうだ。しかしその後も、わざと古くさい感じを出すために冗談半分で使われる。そして、ツイッター用語の「なう」が登場。次の改訂ではどうなるのだろう。
 私もそうだが、ことばにちょっと詳しくなると、他人の誤用を指摘したくなる。しかし、その指摘が実は間違いであることもある。「誤りと決めつけてはいけない」と題された第2章は、そんな実例がたくさん挙げられている。
「的(まと)を得る」と入力すると、私のATOKは「『当を得る/的を射る』の誤用」と指摘してくれる。『三国』でも第6版までは誤用としていたそうだ。しかし改めて検証をおこなった結果、立場を変えて、誤用ではないとした。「的を得る」は間違いではないのだ。「汚名挽回」も、肯定文で「全然」を使うことも。「二の舞を踏む」も。
 ことばは生き物で、常に変化する。そういえば、辞書づくりにたずさわる人や日本語研究者は、「ことばが乱れる」といういい方をしない。「乱れる」のではなく「変化する」という。ことばの変化を楽しむのに『三国』は最適だし、本書はそのよきガイドである。

 (ながえ・あきら フリーライター)

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