書評

2017年2月号掲載

解かれた万葉恋歌の“謎”

――梓澤要『万葉恋づくし』

上野誠

対象書籍名:『万葉恋づくし』
対象著者:梓澤要
対象書籍ISBN:978-4-10-121183-1

 歴史小説の書き手としていえば、いわば「手だれ」の著者が、『万葉集』に取材した短編小説集を出した。万葉学徒の私は、鵜の目鷹の目でアラ探しをしたのだが、残念なことに見つからなかった。小説家に「いんねん」を見つけたかったのであるが、見つけることはできなかった。気を取り直して、読み直してみると、その味わいは、時に淡く、時に濃く、やはり著者ならではの世界だ。あぁ、やられたぁ、という感じだ。
 万葉歌から、有名歌、無名歌を問わず、著者の眼力で選ばれた歌から、次々に紡ぎ出される物語。その万葉歌の作者たちが自由にしゃべり出す。なんとも不思議な短編集だ。じつは、古代社会において「うた」と物語は、密接に結びついていた。物語が、いわば事を書く文体であるのに対して、「うた」は情を書く文体であった。だから、物語を書く場合においても、情の部分はどうしても「うた」を通して書かざるを得なかったのである。そういう事情を知っている私からすると、著者はどんな方法で、「うた」から物語を紡ぎ出すのか、興味津々になった。
 では、具体的にはどういう方法で、著者は短編を書いているのだろうか。それは、「うた」の中に書き込まれている謎を、文学的想像力で埋めるという方法で書かれているのである。
『万葉集』の巻十八に、

  里人(さとびと)の 見る目恥(は)づかし 左夫流児(さぶるこ)に
   さどはす君が 宮出後姿(みやでしりぶり)

  紅(くれない)は うつろふものそ 橡(つるはみ)
   なれにし衣(きぬ)に なほ及かめやも
          (巻十八の四一〇八、四一〇九)
 という「うた」があるが、これは家持の部下が、妻子がいるにもかかわらず、遊女に溺れ、末は官舎に女を連れ込むありさま。見かねた家持が、「うた」をもって本人を諭した。家持は長歌において縷々本人を諭した後に、反歌では、次のように述べているのである。前述の「うた」の訳文を示しておこう。

  里人の見る眼も恥ずかしいではないか、遊女に溺れた君が官舎から宮に出勤している後姿は――
  紅色というものは、移ろいやすいものだぞ。地味な色ではあるが、橡の着なれた衣には及ばないぞ。
  古女房を大切にしたまえ。

 ところが、である。長歌を見ても、反歌を見ても、
 ①遊女と家持の部下は、どこでどんな出逢いがあったのか。
 ②その遊女はどんな気持ちで、家持の部下と付き合っていたのか。
 という点については書かれていない。そして、何よりも、家持が部下をたしなめた結果、部下と遊女はどうなったかは書かれていないのである。書かれていないのは、当たり前といえば当たり前で、それは、部下を諭すために作った「うた」だからである。そんな時に、二人の馴れ初めを語る必要などないのだ。ところが、「うた」を読んだ人なら誰でも、①②とその後の二人のことが知りたいはずである。その知りたいところが、この短編集では書かれているのである。確かに、以上のことは「うた」に書き込まれていないのだが、私はこれを逆に「書き込まれている謎」と呼びたい。なぜ、そう呼んだかといえば、「うた」の詠み手である家持にとってみれば、詳細を記す必要などないかもしれないが、この歌を読んだ読者は、ことの顛末を知りたくなってしまうからである。
 じつは、この問題こそが、「うた」という文芸の持つ本質にして、宿命なのである。前述したように、「うた」とは、「事」を書く文芸ではなく、「情」を書く文芸なのだ。「この薔薇の花は、なんと美しいのだろう」と歌われていたとする。ところが、その薔薇の色も、薔薇の種類も歌われていないことがある。多くの場合、それは謎として永遠に残ってしまう。そういう永遠に残る謎は......想像するしかないのだ。そして、不思議なことに、多くの名歌は、謎のある歌なのである。
 それは、どこか恋と似ている。恋というものは、秘められるものだ。秘められてこそ恋なのだ。しかるに、名歌にも必ず秘められたところがある。万葉恋歌の謎を解く、みずみずしい筆致が、今も私の脳裏から離れない。

 (うえの・まこと 万葉研究者)

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