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書評・エッセイ

今月の新潮文庫

アンドレアデルサルト

赤川次郎ほか 『吾輩も猫である』

南伸坊

 道を歩いている時に、いきなり私の頭の中で外人の名前らしき音が浮かんできた。それを口に出したわけじゃないけれども、私は「異言」というコトバを想起した。
 まるで、身におぼえのない人名なのだ。一体、誰なんだ? アンドレアデルサルト。
「アンドレアデルサルト、アンドレアデルサルト、アンドレアデルサルト」
 と、脳の神経回路をムダにその意味不明の人名はかけめぐった。
 しかし、いきなり湧いてきた時と同様に、唐突にアンドレアデルサルトの出所は判明したのだ。そうか! アンドレアデルサルトは夏目漱石の『吾輩』に出てきた人名だった。美学者・迷亭が持ち出して、その後頻出した。
 私はずっと、この人名を洋食屋で「トチメンボー」を注文する類の、つまり根っからのデタラメだと思っていた。私の中でアンドレアデルサルトは、単に長ったらしくて覚えにくい架空の人物の名前だった。
 ふと、イタズラを思いついたように、私はこの架空の人物の名前をネット検索してみたのだった。びっっっっくりした。アンドレアデルサルトは実在の人物だったのだ。
 アンドレア・デル・サルト「仕立て屋のアンドレア」はルネッサンス期のイタリアの画家、1486年7月16日に生まれ、1531年1月21日に死亡している。
 画像も沢山出てくるが、いままでに見たことのある絵が一枚もない。しかし、そうかあ、本当にいたんだアンドレアデルサルト......と私は嘆息したついでに、トチメンボーについても調べたくなって、今度は「広辞苑」でトチメンボーを引いてみて唖然とした。なんと、メンチボールの単なるダジャレと思っていたトチメンボーも、実在していた。
(もっとも実在しなければシャレにならない理屈だが)
 漢字で書くと、栃麺棒、栃麺をのばす棒とある。栃麺とは栃の実の粉を米粉または麦粉と共にこねて薄くのばし、そばのように製した食品のことだそうだ。
「おそるべきことだ」と私が思ったのは、こうしたことよりも、このように調べる過程で自分が夏目漱石の『吾輩は猫である』を読了しておらず、何度も挑戦を試みたが、その都度失敗していたこと、その途上で覚える意味もないと思っていた人名・アンドレアデルサルトは覚えてしまったけれども、『吾輩』を読了していないことは丸々忘れてしまったことだ。
 そして、何の脈絡もなく、憶える意味もないと思っていた人名を、道を歩いてる拍子に思いだすのである。人間の脳ミソの不思議といえる。
 夏目漱石の『吾輩は猫である』は、世間で代表作のように言われているけれども、読んだつもりで実は読了していない人が案外多いそうだ。私もまたそういう人間であったわけだが、そういう人間が、そうそうたる流行作家諸氏の書いた、漱石へのオマージュ、というよりも『吾輩は猫である』へのオマージュ小説集である本書の感想を述べるというのはいかがなものだろうか?
 っていうか「断わるだろフツー」と、読者は思うだろう。私も思う。しかし老人となって図々しくなった私は、この事実を白状しつつ、しかもこの小説集がおもしろかった事を主張しようと思っている。
 私は『吾輩も猫である』は読了した。そして、赤川次郎氏の新井素子氏の石田衣良氏の荻原浩氏の恩田陸氏の原田マハ氏の村山由佳氏の山内マリコ氏のすべてが、おそらく得意技をもって漱石の『吾輩』を、ひっくり返したり、もじったり、その構造を再現してみせたり、まるで違ったジャンルへワープさせてみたり、と、技術の限りをつくすのに驚いた。それぞれが現代小説の書き手として、漱石に書けなかった『吾輩』と『猫』を書いている。
 漱石よりずっと猫を愛しているのがアリアリと伝わる人、漱石より猫の生態にくわしく、その様を実感的に描き出した人、猫と人間のかかわりを、漱石よりずっと踏み込んだところで主張する人、漱石の小説の持つ、当時の読者への「新情報」的側面をみごとに現代に置きかえた人。
 そして、なんといっても、それぞれの作品すべてがきわめてコンパクトにできあがっている点で、漱石を大いに凌駕している。

 (みなみ・しんぼう イラストレーター、エッセイスト)

赤川次郎・新井素子・石田衣良・荻原浩・恩田陸・原田マハ・村山由佳・山内マリコ『吾輩も猫である』(新潮文庫)978-4-10-101050-2