書評

2016年12月号掲載

『沈黙法廷』刊行記念特集

都市と女性が鮮やかに立ち上がる

川本三郎

対象書籍名:『沈黙法廷』
対象著者:佐々木譲
対象書籍ISBN:978-4-10-122329-2

 ミステリは時代を反映する。作家は物語のなかに現代を投げ込む。佐々木譲の新作は、格差社会と呼ばれるようになってすでに久しい現代を犯罪によって鮮明にとらえている。
 東京の北区赤羽の古い住宅地で六十四歳の一人暮しの男性が殺害される。リフォーム工事のセールスマンによって死体が発見されたところから物語が始まる。
 佐々木譲は、犯罪が起る場所に敏感な作家だが、本作では近年、いい居酒屋が多い町として知られるようになった東京の北の盛り場、赤羽周辺が舞台になる。事件が起きた家は、正確には、北区岩淵にある。ちょうど秩父から流れてきた荒川が隅田川と分岐する岩淵水門のあたり。二十三区内で唯一の酒蔵、小山酒造がある。古い町と分かる。戦災にも遭わなかった。銭湯がある。クリーニング店がある。
 佐々木譲は、ミステリは都市小説であり、犯罪が起る場所が肝要と思い定めている。佐々木譲の小説では、つねに町が生活感を持ってとらえられてゆく。佐々木譲の小説を愛読している理由はそこにある。
 被害者、馬場幸太郎の家は瓦屋根の古い一戸建て。父親の代までは荒物屋だった。幸太郎は勤め人となり、リタイヤした。二度結婚したがどちらもうまくゆかず、現在は一人暮し。幸い不動産(アパート、マンションなど)をいくつか持ち、暮しには困らない。
 赤羽警察の刑事が事件を追う。一人暮しの老人の私生活が徐々に明らかになってゆく。この七月に発表された厚生労働省の調査では一人で暮す六十五歳以上の高齢者(「独居高齢者」)の数は二〇一五年の時点ではじめて六百万人を超えたという。被害者の幸太郎は六十四歳だがほぼこの「独居高齢者」の一人といっていいだろう。それが殺された。まさに時代を反映している。
 幸太郎は小金持なので金にはさほど不自由していない。赤羽駅周辺にある「無店舗型性風俗業」(平たくいえばデリヘル)から若い女性を呼ぶ。また、家事をしてもらうために家事代行業(ハウスキーパー)の女性を家に入れる。「独居高齢者」の暮しぶりが浮き上がり興味深い(ちなみに、評者も「独居高齢者」のひとり)。
 幸太郎はデリヘルの女性に料金の他に一万円のチップを渡す。老人のほうが若者より金を持っている。現代の格差社会があらわれている。だから刑事の一人は述懐する。「このところ若い犯罪者を取り調べていて、年配者への憎悪をよく聞く。若い犯罪者たちは、ほぼ例外なしに年寄り世代が金持ちだと信じている」。実際は、「下層老人」という言葉があるように年寄り世代のほうが、貧富の差が若い世代より極端にあらわれているのだが。
 警察の捜査が進む。幸太郎の家に家事代行として働きに来ていた女性が、有力な容疑者として浮かび上がる。山本美紀という三十歳になる女性。
 証拠はないが、彼女の周辺ですでに二人、老人の不審死があったことが決め手になった。折りから、独居高齢者を相手にした結婚詐欺、不審死事件が連続していた。それが不利に働き、彼女は状況証拠だけで逮捕される。かなり強引な逮捕である。裁判員裁判が始まる。
 物語の中盤から、この女性が不幸なヒロインとして鮮やかに立ち上がってくる。山梨県の出身。両親が離婚し、高校を中退した。一度、結婚したが、幼ない子供が事故死したのをきっかけに離婚した。
 これまで、ホテルのベッドメーキング、ビルの清掃、農家の手伝いなどをして生きてきた。格差社会の底辺にいる。なんの資格も持たない彼女にとってハウスキーパーの仕事は有難かった。誠実に働いてきた。
 地味な女性で、性を感じさせない。あまり友達がいない。裁判が始まる。弁護士はなんとか無罪に持ち込もうとするが、もともと口べたな上に、貧しい育ちで人にいいたくない恥しい過去のある彼女は、自分をうまく語ることが出来ない。
 佐々木譲は、この地味な女性に親身になって寄り添う。格差社会の底辺にはこんな女性がたくさんいる。佐々木譲の初期の傑作『新宿のありふれた夜』のベトナムのボートピープルの少女を思い出させる。裁判の結果をここで書くのは控えるが、裁判の過程が丹念に描かれてゆくので、判決に納得する。
 安い賃金で働くハウスキーパーの彼女が、ようやく十条の木造賃貸アパートから板橋のオートロック付きのマンションに引越すことが出来たのを喜んだというくだりはホロリとする。台所のコンロが二つあるのがうれしいと。

 (かわもと・さぶろう 評論家)

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