インタビュー

2016年9月号掲載

『昭和からの伝言』刊行記念インタビュー

郷愁(ノスタルジー)のみでは語れない実感的昭和史

加藤廣

対象書籍名:『昭和からの伝言』
対象著者:加藤廣
対象書籍ISBN:978-4-10-311036-1

 従来の「昭和史もの」にずっと違和感を覚えてきたという著者に、本書執筆の背景について訊いた。

――近年、日本の素晴らしさを讃えるテレビ番組が目立つようになりましたね。自画自賛というか。

加藤 国力が相対的に低下しだすと、この国はそうなるんです。何だか私の少年期と似たような気配。戦前のGDPのピークが、私が十歳の昭和十五年。日本が経済的に怪しくなってから国民の間にこういう空気が満ちてきたかと思ったら、アメリカ相手に大戦争......。

――ご母堂をママと呼んでいたら、近所の人たちが押し寄せて来て、敵性語を使うなと申入れた話が印象に残っています。

加藤 だから戦後すぐ、ママと呼べるようになってホッと一安心。だけど大学教育の現場が、一転して民主主義を叫んで左翼思想に染まったことには閉口しました。自分たちがそれまで何を教えてきたかについては頬かむりして。「転向」という言葉はもはや死語になりましたが、上の意向、当時はGHQですが、それが変わったら民間も即転向する。こうした日本人の過剰適応というやつは、今も昔も変わりませんね。

――昭和というと、必ずノスタルジーとともに語られる風潮になりました。活力に満ちていたとか、右肩上りを信じられた時代が羨ましいとか。

加藤 それは、たまたま起きた朝鮮戦争による特需があって、日本が高度成長期を体験できた、その結果に過ぎません。当時の日本人はひたすら無我夢中だった。それを後になってノスタルジーめかして語られても、私にはどうもピンと来ない。

――それでも、戦前に加藤少年が過ごした高田馬場の風景は郷愁をそそります。

加藤 高田馬場には農業用の大きな肥溜めがあってね。それが酷く臭うわけですよ。だから地価も安かったんです。近所の戸山ケ原には広い空地があり、凧揚げをしてよく遊んだものです。今からは想像もできないでしょうが。

――ご母堂が作中にしばしば登場されますね。

加藤 私の母は東洋英和の出で、いわゆるモダンガール。家に、社会主義者やインド独立の闘志なんかをよく匿っていたものです。母の旧友たちが集まって茶話会がしばしば開かれ、私も分からないながら耳学問をしたものでした。満州事変勃発についての内緒話なんかは、今でも耳に残っています。

――さて、中小企業金融公庫に就職されてから、進取の精神を発揮して、旧弊を打破する様々な改革を提案しておられますが、そのため国の威光を笠に着たような上司とさんざんぶつかり、再三窮地に立たされたようですね。

加藤 どの職場でもそれは同じでしょうが、改革派は必ず壁にぶち当たる。だけど政府系の機関では、民間のためよりも組織防衛の方が優先されるから手に負えない。私も何度やめてやると叫んだことか。たんに作業の効率化を図っただけなのですが、幹部たちに神楽坂の料亭に呼び出されて吊るし上げを喰った。その夜のことは今でも忘れられません。その後、上層部が交替したことで立場が逆転するんだけれど、そうなればなったで、加藤さん、私も実は同じ意見だったんですよとおべんちゃらを言ってくる奴が後をたたなかった......。

――そのお話からも、日本は中小企業の育成を怠ってきたのかも知れないという印象を強く持ちました。

加藤 アメリカではオバマの政策を見ても分かるように、スモール・ビジネスの起ち上げと育成に国家が手を貸す仕組みがある。日本では、消えゆく中小企業の技術力に今頃になって危機感を抱いた程度にすぎない。この国では特許や資金面その他もろもろに於いて大企業に有利に出来ている。何につけ国策優先なんです。今やグローバル企業の代表格である本田技研が、かつて自動車産業に参入しようとした時だって、当時の通産省はそれを阻止しようと躍起になった。役所の保守体質は、この目でいやというほど見ましたよ。

――脱サラされ、念願の小説家となられたわけですが。

加藤 母の影響で英語には自信があった。こうしたポータブル・スキルを身につけてきたことで、脱サラに踏み切れた面もあります。今、正社員での採用が減ったとか年功序列制度が崩れたとか騒いでいるけど、戦前はそんな悠長な雇用状況じゃなかった。若い人たちには語学プラス何らかのスキルを持って、将来独立することを視野に入れてほしいものです。

 (かとう・ひろし 作家)

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