書評

2016年7月号掲載

蓮實重彦『伯爵夫人』刊行記念特集

危険な感情教育

黒田夏子

元東大総長にして話題の新鋭作家による本年度三島由紀夫賞受賞作――。
この優雅で退嬰的で巧緻極まる長篇小説を筒井康隆、黒田夏子、瀬川昌久の三氏が読む。

対象書籍名:『伯爵夫人』
対象著者:蓮實重彦
対象書籍ISBN:978-4-10-100391-7

 息つぎのすきもないことばの勢いに乗ってあちこちを長い年月にわたって引きまわされたようにおもうのだが、じつのところこの作中時間は、冒頭「傾きかけた西日を受けて」から終景「...時間が時間でございますから、今日は夕刊をお持ちしました...」までちょうど一昼夜、しかもその大半を中心人物は熟睡してすごし、そのあいだに戦争が始まっていたという鮮やかな設定になっている。
 この朝、ラヂオの臨時ニュースは、つぎつぎと"大本営発表"を伝えていたはずで、作品全体の背中に戦争が重く貼りついていることは随所に書きこまれてもいるとおりだが、読み手としては、せっかく睡らせてもらえた作中人物にあやかって、"諜報機関"だの"特務工作"だのはあくまでも裏側にひそませ、その前夜の実質わずか数時間の個人としての激動のほうに素直にかまけていることにする。
 そうたどれば全篇は、極度に凝縮された成人儀礼の時間であり、"伯爵夫人"による手荒な授業時間である。
 この、翌年に帝国大学法科の入学試験を、翌々年に徴兵検査をひかえた旧制高等学校生にとって、"伯爵夫人"とは、異性すなわち他者すなわち全ての外界であり、それゆえ極端な怖れと憧れの対象、謎の塊、虚実の不分明として現前する。そしてその言動と、語り聞かす経歴中の所業とは、その妄想を埒を超えて拡大し、方図もない強烈さで二面性をつきつけ、あげく、両親の寝所から聞こえる嬌声の"レコード"のそもそもの音源はだれのものかとか、"伯爵夫人"が産んだという祖父の子"一朗"と自分"二朗"とはどちらがどちらかとか、自己同一性さえゆさぶりつくして、突如、手のとどかない闇世界に去っていってしまう。「...正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて保たれているあぶなっかしいこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねませんから...」と言いつつ、迫る危難の時代に備えて"ココア缶"と"絹の靴下"とのひとかかえを置きみやげとして託していったりするのが、この苛酷な両極性の教師の情の形なのだ。
 二朗が"伯爵夫人"と最後に一緒にいたのは、作中現実としては冒頭の回転扉のあるビルヂング地下二階の"茶室"だが、そこの風景は「...さる活動写真の美術の方が季節ごと作り変えている」人工物で、ここは「どこでもない場所」「存在すらしない場所」「何が起ころうと、あたかも何ごとも起こりはしなかったかのように事態が推移してしまった場所」、「...だから、わたくしは、いま、あなたとここで会ってなどいないし、あなたもまた、わたくしとここで会ってなどいない」と"伯爵夫人"は言う。
 この"場所"は、ごく初めのほうで"級友"が"同級生"として言及する"あの虚弱児童"の原型らしい実在の作家の、最終長篇最終景での八十老の感慨である「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」とまっすぐにひびきかわす。ちなみにこの"同級生"の広く知られている実年齢によって作品の時代の空気が早くから特定できるなど、人も事もさりげなく適切な布置それ自体で説明ぬきに納得されるのは端的に"活動写真"の手法で、それらおびただしい語句章句、視覚的聴覚的形象はいずれも単独に放置されることなく、反復や相似や対比をかさね、たてよこななめに照応し、読み手がともすれば流れの速さに足を取られ、重層する虚構に踏みまよう構造を、限定してしまうのではない微妙な律儀さで支えていく。
 この律儀さは、もうさっさと睡らせてやれと言いたくなる疲労困憊のはずの帰宅の寝間に届いていた"従妹"の長手紙に「さっそく返事をしたため」る作中人物のありようにもかよって、読み手がつい楽しくなるほどの律儀さで、とても一度読んだだけでは拾いきれない、また読もうと誘ってくる蠱惑として、この作品をいっそう豊かに充実させている。

 (くろだ・なつこ 作家)

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