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書評・エッセイ

『うた合わせ 北村薫の百人一首』刊行記念特集

百首を這いめぐる触手

――北村薫『うた合わせ 北村薫の百人一首』

佐伯裕子

 はっとする鑑賞に出会った。吉川宏志の「夢に棲む女が夢で生みし子を見せに来たりぬ歯がはえたと言いて」に関わる箇所だ。結句のしんとした怖さをどう読み取るか。フローベールの『ジュリアン聖者』(岩波文庫)の一行、山田九朗訳が引用される。「――一度も泣かずに歯が生えた」。生き物を殺戮することに取り憑かれる幼児の描写だ。かつて、この一行に「慄えた」と著者は書く。
 だが、山田訳の一行は、原文の意味を一瞬のうちに誤読させるもののようだった。「歯もはえそろったが、そのために泣いたことは一度もない」(桑原武夫訳)など、忠実な訳が紹介されていく。だが、理に適って見えるどの訳も、著者を戦慄させてはくれなかった。「夢という非現実から、その小さいが白々とした《歯》が現実に食い入って来そうになる」という結句の解釈。翻訳の一行に導かれた鑑賞が、吉川の一首をさらに怖いものにしている。
 心動かされた初発の印象を、安易に「正しさ」に譲りわたさないのは、創作者としての心意気だ。どの鑑賞にも息づくその姿勢は、歌人の藤原龍一郎、穂村弘との巻末の鼎談でも露出する。木下龍也の「つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる」などの解釈にまつわるやりとりだ。「店先に並ぶ菓子パンの袋がそっと囁く」とする、直観的で一途な解釈にたじろぐ二人。著者の抑えがたい想像力が浮き彫りにされる場面である。
 韻律に関わる箇所も印象深い。仙波龍英の「ひら仮名は凄(すさま)じきかなはははははははははははは母死んだ」、香川ヒサの「ひとひらの雲が塔からはなれゆき世界がばらば らになり始む」の二首の組だ。本来は「母母母母母母」となるところが、短歌の場合、平仮名だと「ははははは・ははははははは」と五句七句に別けて読まれてしまう。すると、読後に「哄笑」が響きわたる。この一首から、韻律の怖さと同時に、仙波の韻律への憎悪を読み取っているのである。香川の歌も、一字空けの効果を、「短歌の調べが世界を引き裂く」もの、と鋭く指摘する。
 何しろ「――一度も泣かずに歯が生えた」という一行に、瞬時に共振する感性だ。たった一行が放つ衝撃を、今度は一首の短歌に読み取ろうとする。読後の瞬時の戦慄をもとに書かれているのだが、その視線は、百首の歌を這いめぐる触手のようにも思えてくる。
「かくのごと綴られてゆくよろこびのこゑいかばかりわたしが言葉ならば」はどうだろう。詞書(ことばがき)「吉行淳之介『目玉』読後」を添える西村美佐子の一首だ。艶のある文章を読む悦びが全身でうたわれている。この官能的な歌を鑑賞するのに、著者自身が言葉になって、一首を這いめぐるのである。書くことの愉悦、読むことの愉悦を知る者の、最良の選歌といっていい。
 読んでいて嬉しいのは、選ばれた歌がユニークだったり、これまで気づかなかった秀歌だったりすることだ。それも、どちらかといえば、仄暗い深淵を湛える歌が多いように思われる。例えば、三井ゆきの、夫を焼き場に送った一首、「覚えてもゐぬことを思ひ出さむとす君を包みし火の色などを」。ああ、こんなに凄まじい挽歌があったのかと、しばらく感じ入ったのだった。
 戦慄する「歯」のイメージを呼び起し、「世界を引き裂く」調べの怖さを指摘し、そうして「言葉と同化する」法悦へと読者を誘っていく。そのような鑑賞のうちに、著者自身が見ている風景の仄暗さ、もの悲しさに浸されてしまうのである。
 誤読を恐れず、初発の感動を手放さない鑑賞に、わたしは自由な広がりを感じた。小説家である著者には、一首のめぐりに、重層的なイメージやドラマが見えていたにちがいない。短歌は、好んで読み承(つ)いでくれる人によって、豊かに太っていく詩型なのだ。

 (さえき・ゆうこ 歌人)

北村薫『うた合わせ 北村薫の百人一首』978-4-10-406611-7