書評

2016年2月号掲載

いい小説の条件

――上田岳弘『異郷の友人』

高橋源一郎

対象書籍名:『異郷の友人』
対象著者:上田岳弘
対象書籍ISBN:978-4-10-336733-8

 上田岳弘さんの『異郷の友人』を読んだ。読み終わってすぐ、気になったことがあったので、最初から順に読み返してみた。最初に日付が出てくるのは何時なんだろう、と思ったからだ。あった。17頁目、「2011年2月21日」と書いてある。なんだかちょっと感動した......と書いても、この文章を読んでいる読者のみなさんには、なんのことだかわからないだろう。すいません。このまま続けさせてください。
「いい小説」が「いい小説」であるためには、いくつか条件がある。どんな条件だか、わかりますか? たぶん、それは読者によっても違うだろう。ストーリイが面白い、登場人物(キャラクター)が魅力的、文章が素敵あるいはユニーク、びっくりするようなエピソードが満載、(世界や社会への)鋭い認識がある、とんでもない発想が見つかる、等々。もちろん、それらのどれがあっても、けっこうなことだ。でも、ぼくの場合、「いい小説」である条件は、違うのである。もったいぶる必要はない。ぼくが「いい小説」と思えるものの条件は、以下の通りだ。
(1)ぼくたちが生きているこの世界とは異なったルールをもった世界があること。
(2)でも、異なったルールをもった世界であるのに、ぼくたちの、この世界に繋がっていること。
 これだけだ。でも、これを実現している小説は少ない。ほんとうに少ない。とても難しいのだ。「いい小説」であることは。たとえば、カフカの『変身』では、ある朝、起きると、ひとりの男が「虫」になっている。でも、それだけでは、(1)の条件を満たしていることにならない。「虫」になることが、どうやら必然であるらしい、と読者が感じたとき(1)の条件が満たされるのである。そして、その、ぼくたちにとって「異常」な世界が、実は、ぼくたちの世界の、異なった「現れ」であることを確信したとき、(2)の条件がようやく満たされることになるのである。
『異郷の友人』は奇妙な小説だ。最初に「吾輩」がいる。「吾輩」は、遙か歴史を超えて生きつづけている超越的存在だ。正確にいうと、それを「生きつづけている」と呼んでいいのかわからない。様々な人物に「生まれ変わり」、それぞれの記憶を保持したまま、現在に到達している。そして、現在、「吾輩」は「僕」=「山上甲哉」という名前で生きている。それだけではない。「吾輩」=「僕」は、他の様々な人びとと「意識」や「記憶」を共有することができる......らしい、のである。「らしい」と書いたのは、このすべてが、「僕」の妄想である可能性も捨てきれないからだ。なるほど。さて、この、きわめて、奇怪な「吾輩」=「僕」=「山上甲哉」以外にも、オーストラリア人で一匹狼的元ハッカー「J」、その雇い主で国際的秘密組織の幹部「E」、「世界の終わり」を予言する、淡路島を舞台にした新興宗教の教祖「S」などが登場する。ちなみに「S」もまた、「吾輩」=「僕」=「山上甲哉」と同様、他人の「意識」や「記憶」に参入することができるのである。さて、こんな風変わりな連中が、まるで申し合わせたかのように、一ケ所に集合する。それはいったいなぜなのか。そして、彼らは、どうなるのか。彼らを待っているものは何なのか。奇妙な世界で起こる奇妙なできごとを追いかけながら、ぼくは、ぼくが追いかけている文章や事件の「その先」で起こることを待ちつづけていた。
 そして、「それ」が起こるのだ。あの日、ぼくたちの世界でも起こったように。
 そう、これは、ぼくたちが知っている「あの日」を描いた小説だった。それにもかかわらず、この小説の「あの日」は、ぼくたちが知っている「あの日」とは少し違うように思えた。いや、もしかしたら、この小説で起こった「あの日」こそが、「ほんもの」であったのかもしれないのだが。
 ぼくたちが、「あの日」の大きさに圧倒され、それをほんとうには理解できなくなっていたのに、上田さんは、まったく別の世界にぼくたちを連れ出し、そこから、「あの日」の真の姿を見せてくれた。それは「いい小説」にだけできることのようにぼくには思えた。

 (たかはし・げんいちろう 作家)

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