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書評・エッセイ

物語の(あるいは知識の)靴

――池澤夏樹『砂浜に坐り込んだ船』

江國香織

"往き来自由"感に溢れた短編集だ。まじですか、と、若者でもないのに若者言葉で驚愕してしまうほど、この本のなかで著者のフットワークは軽く、あらゆる境界をゆうゆうと超えて小説を展開する。この世とあの世、生者と死者、夢と現実、はるかな昔と現在――。その境目はどこにあるのか。どこであれ、あるとするなら、そこは両者の出会う場所であり、物語のひろがる場所だ。たとえばアリスのウサギ穴、ナルニア国の洋服だんす。
 表題作「砂浜に坐り込んだ船」のなかで、主人公は死んだ知人と会話をする。体言止めを多用した短いセンテンスの積み重ねによって、いつのまにか、それが自然である場所に読者はいる。連れて来られた自覚すらなく、気がつけばそこにいるのだ。ウサギ穴も洋服だんすも通ることなく。
 点ではなく線で物事を見るなら、時間も空間も、どこまでもつながっている。そのように物事を見る視野の広さおよび深さは、「マウント・ボラダイルへの飛翔」のなかで語られる、「何枚もの影絵を重ねて見るような」、「無数の時間を重ねて見ている」アボリジニの世界観にも通じるものだろう。主人公がオーストラリアである人物と行き会い、バラムンディのグリルとかバグ・テイルのパスタとか、彼の地の名物料理をたべながら語らうこの短編は、風変りだがキュートで、登場人物二人も、読者である私たちもアボリジニではないのに、実際に幾つもの風景が目の前を去来する。「どこまでも一緒に行きたいと思う強い気持ち」が恋であるという、シンプルで完璧な定義がふいにでてきて虚をつかれたりもする。
 読み進むうちに気づくのだが、これはとてもパーソナルな物語集だ。知らないわけではないが、親しいわけでもない相手(ひさしぶりに会った学生時代の友人とか、長年通っているが、個人的な会話はしたことのない歯医者さんとかバーテンさんとか)が、あるとき自分にだけこっそり語ってくれた話、という印象の短編小説がならんでいる。なんで私に? と戸惑いながらもひき込まれ、好むと好まざるとにかかわらず、一度聞いたら忘れられなくなってしまう。そして、聞く前の状態には二度と戻れなくなる。べつに秘密というわけではなく、でも、あるときある場所に居合せた人にだけ、扉があいて語られる話。その意味で、「アラビアン・ナイト」やハウフの「隊商」にも通じる物語の愉しさがある。
 愉しさ――。すべての短編に何らかの形で死や死者が関わり、東日本の震災にまつわる話も二編あるというのに、愉しさという言葉が私にはしっくりくる。
 その場所をありありと想像させ、ひんやりした空気に包まれる「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」は、死後の世界の話なのにどこかなつかしく、根拠不明だが知っていたと思わせる説得力と、人類の営みのすべてに連なる(いまのところその果ての)個というものを、始めも終りも持たない大きな流れの構成要素として感じさせる喚起力に満ちているし、少年たちが無人島でピザを焼くだけの話なのに心を遠くまでさらわれる「大聖堂」と、この上なくラブリーな短編「イスファハーンの魔神」(うなります。いろいろな意味で跳躍力が高い。好きにならずにいられない一編)は、老練な少年池澤夏樹の面目躍如。
 この一冊からこぼれでる愉しさというのはつまり、物語の(あるいは知識の)靴があればどこにでも行かれるという愉しさ――であると同時に、どこまでも行くしかないというかなしみ――なのだ。「この祝福された時間のどこで運命の軸が変わったのだろう?」「風景で狂うのは人間同士の関係に由来する理由で狂うよりいいかもしれない。風景で正気を失うのは実は正気に戻ることかもしれない」「二人で世界を食い尽くしてやろう」「精一杯抵抗してずっと自宅で暮らしてほしい」どの短編にでてくる誰の言葉かはともかく、すべてがつながっている場所、時空を超え、物語がつながり、ひろがるその場所で、なにしろ彼らはそんなことを言うのだ。

 (えくに・かおり 作家)

池澤夏樹『砂浜に坐り込んだ船』978-4-10-375309-4