書評

2015年11月号掲載

目が点になる〈現実〉の、愛と感動

――セサル・アイラ『文学会議』(新潮クレスト・ブックス)

松田青子

対象書籍名:『文学会議』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:セサル・アイラ著/柳原孝敦訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590121-9

〈フィクション〉である物語の中で、これが〈現実〉だ、これが〈完璧〉な〈現実〉なんだと、一人称の語り手に〈フィクション〉の現実性について、隙あらばいろんなかたちでしつこく念を押されると、こっちはものすごく居心地が悪い。じゃあ今これを読んでいる私の〈現実〉は一体全体何なんだろうと不安を感じはじめ、最終的には、ここはどこ? わたしはだれ? と私の〈現実〉の次元まで歪んでしまう。やめて欲しい。
 そういうたちの悪い、厄介なことを仕掛けてくる、頭のおかしな人がセサル・アイラである。以前に読んだ『わたしの物語』が相当どうかしていたので、この人の言うことは話半分で聞くことにしよう、と心に決めて読みはじめた。予想通り、今回も頭がおかしい。表題作「文学会議」で、セサル・アイラという名前の作家であり、翻訳家でもある〈マッド・サイエンティスト〉は、楽々とクローンをこの世に生み出すことができる。彼の夢は世界征服。そのために〈完璧〉なクローンを作ろうと、〈天才〉であるカルロス・フエンテスの遺伝子を自ら発明したクローン製造器に仕込んだ結果、とんでもないことが起こる。「間テクスト性」を嫌悪する彼ではあるが、「現実を作り出す、あるいは変質させるということが文学が生み出す大きな仕組みの一部なのだとすれば、『創世記』はそのマスタープラン」だと、過去に『アダムとイヴの宮廷で』という戯曲を発表している。文学会議の一環として上演されたこの戯曲の小道具である〈望外鏡〉を武器にして、アイラはカタストロフに襲われた街の人々を救う(そもそもアイラが元凶なのだが)。粗筋だけ読むと、SFというより、自己が肥大したマンガ的妄想のようである(自分は「マンガの典型的な〈マッド・サイエンティスト〉だ」と本人も認めている)。
 さらにマンガ的なことに、このアイラは、〈愛〉に悩んでいる。根源的な〈愛〉のかたちである「アダムとイヴが現実」の存在であるならば、〈愛〉も可能だと語る彼は、「私は愛することができるのか?」「本当に愛せるのか? テレビドラマみたいに? 現実のように?」と自問し、うじうじする。
 その〈愛〉を、二編目の「試練」で二人のパンク少女が〈完璧〉に証明してみせる。太りすぎの、重い抑鬱症に悩まされている少女マルシアは、「ねえ、やらない?」という身も蓋もない一言で、彼女たちに見初められる。とにかくマルシアにご執心の二人は、「恋愛の証明としては、いわば古典」である「試練」を提案し、マルシアに〈愛〉を見せつける。
 ある場所で、「これから起こることは、なにもかも愛ゆえのことだ」とパンク少女たちが高らかに宣言した瞬間、〈現実〉はその空間を支配する「パンク少女たちの系列」と、「見守る犠牲者の系列」に二分化し、またまた惨劇が幕を開ける。そして犠牲者たちは、これまでに〈フィクション〉で描かれてきた〈愛〉を知っているがゆえに、自分たちの身にこれから降りかかる悪夢を感知する。「文学会議」でも彼らは、アイラが生み出した怪物を目にしたとき、「さらに悪いことが起こるという確信の叫び」を上げる。割り振られた役割を一瞬で理解した彼らは、さくさくと死んでいく。何も知らなければ良かったのに。
 この〈現実〉は、主人公たちに都合がいい。カタストロフや天変地異さえ利用して、彼らは不可能を可能に、〈夢〉を〈現実〉に変える。その他大勢は進んでその身を犠牲にし、ある意味、共犯関係にある。そうやって彼らが一丸となって作り上げる〈現実〉は、目が点になるけれど、清々しい。ほかの誰のためでもなく、読者のためでもなく、純粋にマルシアに〈愛〉を証明するためだけに、この〈現実〉は存在しているのだと思える。それはちょっと感動的だ。〈フィクション〉の〈現実〉や〈愛〉に〈完璧〉も何もないだろうに、そもそも本当の〈現実〉にだって〈完璧〉なんてないのに、それでも〈完璧〉だと証明しなければならない強迫観念につかれた手荒い手口は、ほとんど詐欺師かヤクザに近い。そして恐ろしいことに、ロマンティックなのだ。すべての作家は〈マッド・サイエンティスト〉だと言うこともできるかもしれないけれど、そういう言葉もなんだか退屈だ。とりあえず確かなのは、私たちの〈現実〉よりもアイラの〈現実〉のほうが断然面白いということと、パンク少女たちとマルシアがこれから「やる」ということだけだ。存分にやって頂きたい。

 (まつだ・あおこ 作家)

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