書評

2015年11月号掲載

小説らしい小説

――瀬戸内寂聴『わかれ』

田中慎弥

対象書籍名:『わかれ』
対象著者:瀬戸内寂聴
対象書籍ISBN:978-4-10-114444-3

 本書に収められている九つの短編の中には実在の人物が登場するものがいくつかあり、そこには著者自身も姿を見せる。『約束』の吉行淳之介はある日突然、電話をかけてきて、昨日白内障の手術をしたこと、腕のいい医者だからもし著者が白内障になっても心配いらないということだけを告げてすぐに切る。その後何年も経ってから、著者は本当にその医者の手術を受けることになる。予感とも縁とも言える、作家同士の不思議なつながりだ。
『紹興』では、自らが発した「紹興へは是非行きたい」という言葉から、武田泰淳の思い出が浮び上がってくる。中国の革命家秋瑾のことを書いた武田と、日本の革命家管野須賀子のことを書いた著者には他に、僧侶であるという共通点もある。文壇史において興味深い点だ。
『面会』では、テロリストの重信房子に会いに、拘置所へ行く。有名な作家がなぜ犯罪者と親しくするのかと、疑問や反発を持つ読者もいるだろう。その感想は社会的に見て全く正しい。作家もテロリスト同様、社会性をどこかに置き忘れてきた種族なのかもしれない。反社会性を行動に移すテロリストより、言葉で闘う作家の方がしたたかで、人間離れした存在だ。テロリストは人間以外のものではなく、作家は人間に似た何者かだ。
『道具』で、日頃は放任主義の父に、仕事道具をまたごうとして叱られ、かんな屑の中に漏らしてしまう場面がいい。かんな屑と小便はさぞこうばしい匂いを立てただろう。
 他の五編は著者の登場しない、小説らしい小説。『道づれ』と『圏外』は、車の中での男女の、触れそうで触れない、このあと触れ合うのかもしれない姿を切り取った掌編。
『百合』は女性同士の恋愛の話。目覚めるきっかけになった高校時代の転入生との関係、小学生時代に偶然見てしまった母の苦しみ、そこから時が過ぎ、「幸福とは主観的なものだ。私は今の自分を幸福だと胸を張って言える。」と語る現在までが、鮮かな感覚描写を交えて書かれている。
『わかれ』は九十を過ぎた女の画家と四十二歳下の報道カメラマンとの関係。呑み友達と言えばそうだが、恋愛になり切らない、あるいは逆に恋愛を越えた、そして友情とも違う空気が流れている。だがこれは男の読者の都合のいい解釈かもしれない。九十を過ぎていてもきっと、感情の動きはある。
 九編中、私が一番好きなのは、巻頭に置かれている『山姥』。語り手が男であるためだろうか。会社を潰し、酒に走り、鬱病の診断を受けた男が旅に出て、大学時代の友人夫婦が営む新聞販売店に転がり込み、オートバイで山間の家々に新聞を配るようになる。その中の一軒には、山姥と呼ばれている女が一人でずっと住んでいる。山姥の家は庭木が荒れ放題で、垣根も朽ちているという状態。配達に行く度に、それまで暗かった山姥の家に灯りがともり、男は山姥の「電波のある視線」を感じる。不気味なことが起こりそうな展開だがある時、壊れかけていた郵便受けを男が造り直してやると、翌朝、いつもと逆にともっていた灯りが消され、暗がりに懐中電灯の光が動いて「ありがとう」と書く。翌朝、山姥は門の脇に、男のために紅茶の入った魔法瓶を置いておく。顔を見ず、声も交わさない関係なのだが、二人の間では声にならない会話が続けられていたのかもしれない。なぜ山姥が声を発しないか、どういういきさつで一人暮らしをするようになったのかは、台風の朝、男が山姥の命を救ったあとで明らかにされる。その後、二人の距離は筆談によって縮まってゆく。山姥がラストで取る行動は、これ以上近づくと自分の感情を自分で傷つけると思ったからだろうか。あるいは、男の命を吸い取ってしまうとでも感じたからだろうか? 愛情が、別れにつながることもあるのだ。

 (たなか・しんや 作家)

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