書評

2015年8月号掲載

憤怒する「私」の力

――西村賢太『痴者の食卓』

富岡幸一郎

対象書籍名:『痴者の食卓』
対象著者:西村賢太
対象書籍ISBN:978-4-10-303237-3

 西村賢太が「苦役列車」で芥川賞を受賞し「平成の私小説家」として話題をさらったのは二〇一一年であるが、私は二〇〇七年十月に刊行された『二度はゆけぬ町の地図』を読みたちまち魅了された。中卒の十代後半の北町貫多という若者が雑司が谷や椎名町などの四畳半のアパートに住み、日銭を稼いで酒や風俗で浪費しては安い部屋代も払えず夜逃げする。彼女をつくりまっとうな生活を夢想するが、自堕落な貧乏生活をくりかえし、作品集のタイトル通り、行く先々で自ら鬼門を作り、東京という街を彷徨する話である。貧乏・酒・病気・女という私小説がかつて主題とした素材をかき集めて、それをメガロポリス東京の地図上に展開する。
 かつて私小説は中村光夫のような西洋近代(文学)を無闇に有難がる批評家たちによって、市民社会の成熟や個人主義の確立を欠いた日本における、平板にして奇妙な出来損ないの文学であると批判された。しかし「市民」やら「個人」やらが大手を振って歩くようになった、今日の文明社会ニッポンが隠蔽してしまった「私」という野性の感覚を生なましくよみがえらせる「私」小説、それが西村作品である。あらゆるものが無臭化され、表面だけが(差別語の排除といった言葉の次元もふくめて)ピカピカになっていく生活空間に、人間の体臭を鮮烈な実感として描き出す作品の言葉の迫力、いや恫喝力に圧倒されたのである。
 六編からなる本書にも、この「臭気」は蔓延している。表題作は主人公の貫多と同居する秋恵(貫多もついに女と生活する夢を実現したのだ!)が、土鍋を買って夕餉を楽しもうと思い立ち早速ホームセンターへ行き、秋恵のすすめで高価なホットプレート式の鍋を購入するが、いざ食卓に着こうとするとそのホットプレートから尋常ならざる異臭が立ち昇ってくる。嗅覚の過敏な貫多は、その瞬間に悪臭を発する物自体よりも、それを無理を云ってまで買った秋恵にたいして憤懣(ふんまん)を覚え、異様な食卓の光景は、彼女への暴力(DV)のお決まりの奈落となる。
「十年近くも素人の女体とは交じわるはおろか、口を利く機会すら得られ続けずにいた」貫多にとって、秋恵はまさに「天与の存在」であり、失うことは絶対にできない女であるにもかかわらず、他人への逆恨みと自虐にがんじがらめにされてきた貫多は、彼女の片言や一寸した態度に過剰反応して暴虐のかぎりをつくす。口論から容赦ない打擲、足蹴、髪を掴んでの引きずり廻し。その後の慚愧の念と秋恵を失うことの不安。暴行後に、落涙しつつ土下座し反省する男となる貫多。このくりかえしが「破滅の日」の予感のなかで展開される。
 しかしこれが決してただ陰惨なDV小説に終らないのは、貫多と秋恵の生活空間を囲繞する物たちの生なましい感触があるからだ。「下水に流した感傷」で、狭いアパートの部屋の水槽内を遊泳する金魚や緋泥鰌や川むつの赤・黄・銀の彩りの充実感と、その後の魚たちの死骸と腐敗。「畜生の反省」で貫多が出入りする雑居ビルの古書肆の雑多な本や、「虚室」と称するアパートの部屋の四畳半や浴室。「微笑崩壊」の鶯谷駅前の貫多が行きつけであった居酒屋の窮屈な卓上に「ゴタゴタと並」ぶ安価な食物やビール壜。それらの物(モノ)たちや生物は、メタンガスのようにぶつぶつと貫多の内心に発生する癇癪や憤怒、自責と慙愧の思いを取り巻き喚起させ、人工的なものに覆い隠された贋の生活空間を、貫多の鉄拳によって突き破り一瞬にして瓦解させてしまう。市民社会も個人主義も、近代的教養なるものも、狭い風呂場の排水溝に流れ去るあわれな魚たちのように下水と化す。北町貫多はそのとき、愛しむべき女に狼藉を働いているのではなく、虚に満ちたこの世間にたいして、現代の世界へ向かって拳を振りあげているのだ。西村作品を私小説と呼ぶのであれば、この「私」の強い憤怒の故にほかならない。

 (とみおか・こういちろう 文芸評論家)

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