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書評・エッセイ

幻影としての女たち

――エリック・フォトリノ『光の子供』(新潮クレスト・ブックス)

江南亜美子

 悲しげな美しさと近寄りがたい雰囲気、酔いそうになるほど強いゲランの香水(ジャルダン・バガテール)、紫のインクで書いて寄こした連絡先。情熱的かと思えば、つれないほどにそっけなく、待ち合わせにはつねに遅れてやってきて、夫と息子の待つ家へと帰ってしまう女、マイリス。もはや若くはなく、女の扱いに慣れ、分別もあるはずのジル・エクトールが、身も世もないほどの恋に落ちた相手とは、そんな女性だった。
 父親を亡くした日、ジルはなじみの映画館に出かけ、ルイ・マルの『恋人たち』を観る。父親は撮影技師として数多くの映画製作にかかわった過去を持ち、無数の女優たちのポートレートや撮影日誌の記述を残していった。ジルはその女優たちのうちの誰かであるはずの、自分を産んだ母親を、探し出そうとしているのだ。「光のマジシャン」と呼ばれた父が撮った、おもにヌーヴェル・ヴァーグのモノクロームの映画に立ち現れては消える大物女優の面影に、自分に似たところを探して。ジャンヌ・モロー、アンナ・カリーナ、ダニー・カレル、デルフィーヌ・セイリグ……。そんなときに出会ったマイリスは、ときに光となり影となりながら、ジルの人生に複雑な陰影をつけていく。
 人妻に焦がれる狂おしい恋は、パリの町並みによく似合う。パリを舞台にした映画や小説の恋人たちがかならずそうするように、彼らもまた町を歩きに歩きまわり、路地から路地へと移動する。カルティエ・ラタンの映画館、サン・ルイ島にある父との思い出のカフェ、初めて肌を合わせたモンパルナスのジルの部屋。
 著者は、実在の通りやカフェの名を細かく書き込み参照するが、不思議と読めば現実感は希薄で、とらえどころがない。その独特の浮遊感は、ジルが、たえず流動的なマイリスのイメージ、固着できない観念的なマイリスの記憶を、必死にとらえようとしているからかもしれない。
〈私は自分だけが知るマイリスの肉体を想像した。朝の軽やかな空気に運ばれてくる、気の遠くなるような長い断食の末にようやくたどり着いた、唇で摘んだばかりの熟れた裸体。炎の再燃は夜明けに起こる〉
 ジルとはつまるところ、イメージに魅了された男である。マイリスの内面に深くせまろうとはせず、彼女もまたその心の内を語ろうとはしない。網膜に現われては消え、消えては現われるイメージを、ジルは自らの記憶の標本室にとどめておこうとする。それは母親を探す場合においても同じく、恨みや思慕など情緒的な問題に回収しない。あくまでも、表象をめぐる欲望にとりつかれているのだ。父親は「近づきすぎるな」という意味深長な言葉をジルに残したが、その付託はとうぜん守られることはない。
 この小説は一読すると、マイリスを彼女の夫とジルがとりあう三角関係を描いた物語にみえる。しかしそのじつジルは、父親との母親をめぐる三角関係にもある。ジルが、弁護士という職を持ちながら、いま小説を書きつつある作家でもあることは重要で、天才的な撮影技師だった父と、小説を書かんとする自分のどちらがより豊かに、繊細に、母親かもしれない女優たちのイメージをとらえられるかの、時代を超えた勝負を行なっているともいえるのだ。ひいては本作は、映画と近代小説という、一九世紀来パリで花ひらいた表象芸術が、風景や女たちのイメージをどのようにものにしてきたかの、映画論の側面を持ち、また実践のひとつでもあるだろう。
 ジルはその苦しい恋の道ゆきとパラレルに、母探しの思いを深めてニースやボルドー近郊などにも向かうが、いったいこのイメージの迷宮から出ることは可能なのか――。私たちはつのる不安感とともにそれを見届けずにはいられない。
 ところで著者のエリック・フォトリノの名は、ル・モンド紙の元編集長としてもよく知られる。記者による経営が信条だった社の経営不振を受け、二〇一〇年に身売り先を求める決定をしたのがフォトリノだったのだ。ジャーナリストでもある彼が描く、幻影としての女たち。謎めいていて、スリリングな小説世界に、しばし没入していたい。

 (えなみ・あみこ 書評家)

エリック・フォトリノ著/吉田洋之訳『光の子供』(新潮クレスト・ブックス)978-4-10-590112-7