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書評・エッセイ

『自覚 隠蔽捜査5.5』刊行記念特集

成長していく脇役たち

――今野敏『自覚 隠蔽捜査5.5』

関口苑生

「考えるとは、合理的に考える事だ」
 と言ったのは批評の神様・小林秀雄である。ところが、この合理的という言葉の意味がなかなか厄介で、最近の風潮では能率的と同じことだと勘違いしている人も多いようだ。
 そこで誤解が生まれる。たとえば合理的な人間と聞いて思い浮かべるイメージも、人によっては随分と違う。おそらく今では機械的に物事を判断し、情の入る余地のない、数字と結果がすべての、要するにあまりお友達にはなりたくはない人物というのが多数を占めているのではないか。
 実は《隠蔽捜査》シリーズの竜崎伸也警視長が、まさにそう思われていた人物だった。
 シリーズのスピンオフ短篇集『自覚 隠蔽捜査5.5』には、そうした例が次々と登場する。というのも、この短篇集の語り手、主役は竜崎ではなく、普段、彼の周囲にいる大森署の部下やライバルなのだった。いつもは脇にいる彼らの視点から見た竜崎の印象が語られるのである。だが、そこで出てくる声は驚くほど辛辣なものだ。曰く――
「合理的に考え、ばっさりと斬る。それが竜崎流だ」
「竜崎は、不合理なものをずばりずばりと切り捨てていくタイプだ。だから、温情や思いやりといった心情的な面は無視して、ドライに数字で判断するほうを好むかもしれない」
「いったんその信頼を裏切ったら、二度と相手にしてくれないような気がする」
 もちろんすべて誤解である。実際にそういうことがあったわけではない。誰かからそんな話を聞いたわけでもない。ただ、竜崎の普段の態度が、彼らをしてそう思わせるのだ。
 貝沼悦郎副署長の場合は、登庁して各社の朝刊を読んだときに、まず竜崎の顔を思い浮かべた。そこには東日新聞一紙だけが、貝沼自身も聞いていない連続婦女暴行未遂事件容疑者の逮捕劇を報じていたのだ。貝沼が真っ先に心配したのは捜査情報の漏洩と他紙とのマスコミ対応である。さらにそこへ飛び込んできたのが、これはどうも誤認逮捕ではないかという現場からの報告だった。そのとき、貝沼が思ったことは何か。それはこの事態を絶対に竜崎に知らせるわけにはいかないということだった。
 関本良治刑事課長の場合は、強盗殺人事件の犯人が人質をとっているにもかかわらず、部下の刑事が発砲してしまったことで竜崎の判断を憂いていた。銃の使用は、はたして妥当だったのかということだ。関本は部下を守ってやりたいのはやまやまだったが、竜崎は曖昧なことが嫌いなので、おそらく処分ありきが先で考えるのだろうと思うのだ。
 野間崎政嗣管理官の場合は、新しい方面本部長・弓削篤郎警視正が異動してきたときに、管轄区域の警察署で問題があるのはどこかと訊かれて、咄嗟に大森署ですねとこたえてしまったことで、その理由を一生懸命作る羽目になる。
 ほかにも『疑心 隠蔽捜査3』で竜崎の心をとことん迷わせた畠山美奈子、いつもは表に出てこない地域課長や強行犯係長、竜崎の同期で幼馴染みの伊丹俊太郎刑事部長らが登場し、彼らの眼で見る竜崎の姿がたっぷりと描かれる。
 良質なシリーズ作品には、巻を重ねるごとにキャラクターが成長していくという特徴があるが、それは何も主人公だけに限ったことではない。むしろ脇役が成長して初めて血肉がついて、厚みも生まれてくる。本シリーズはその典型例だろうが、長篇では脇役ひとりひとりにスポットライトを当てて丁寧に描くことが意外に難しい。ところが短篇なら、これが容易に出来てしまうのだった。一読して、こんなにも脇役が立った小説というのは珍しいと感じた。
 しかしそれにしても、と改めて思うのは、どうしてこれほど竜崎は誤解されるのか。先にも書いたが、ひとつには彼の態度のせいもあるかもしれない。が、それ以上に勘違いされているのは、合理的な考えという部分だろう。竜崎の考える合理的の意味と、周囲の人間が考えるそれとはどうも別物であるらしいのだ。竜崎は常にものの道理を思う。道理とは物事の筋道であり、人の行うべき正しい道である。そのことがわかったとき、彼らの竜崎を見る眼が違ってくる。
 こういう作品を素敵な小説と言うのだろう。

 (せきぐち・えんせい 文芸評論家)

今野敏『自覚 隠蔽捜査5.5』978-4-10-300257-4