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書評・エッセイ

「らあ、らあ、らあ」――小澤征爾の言葉、村上春樹の音楽

――小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮文庫)

青柳いづみこ

 あらためて言うまでもないが、音楽は言葉を越えた芸術である。オーケストラの指揮者のプローベ、室内楽の練習、教師のレッスン、その他あらゆるシーンで言葉を使ってコミュニケーションがとられてはいるが、最終目標は音楽のレヴェルで語りあうことである。音楽家にとって言葉はあくまでも副次的なもので、しばしばブツ切れで、飛躍と省略が多く、身振り手振りに代弁させるので、書き取ると形にならないことが多い。
 ジャズと同じようにクラシックにも精通する村上春樹が小澤征爾と音楽について語りあうようになったのは、二〇〇九年一二月、小澤が食道ガンを告知されてかららしい。さかんに指揮活動をしているころの小澤は音楽以外の話をすることが多かったが、療養生活にはいると、音楽を語るだけでも「なんとなく生き生きした顔つきになった」という。
 あるとき自宅に小澤を招いた村上は、グレン・グールドがバーンスタインとブラームス『ピアノ協奏曲第一番』を共演した折りの思い出話をきき、それがあまりにおもしろいので、是非とも文章として残したい、それができるのは自分しかいないと感じた。
 本書は、六回にわたるトークセッションでの、「心の自然な響き」の記録である。とりわけ、一緒にレコードをききながらの会話がおもしろい。グールドの弾くベートーヴェン『ピアノ協奏曲第三番』でカラヤンとバーンスタインの比較。音楽の方向性について解説する小澤は「ほら、『らあ、らあ、らあ』っていうやつ。そういうのを作っていける人もいるし、作れない人もいる」と語る。カラヤンが前者でバーンスタインが後者らしい。
 単行本のあとがきで小澤は「あなたのおかげですごい量の想い出がぶりかえした。おまけになんだかわからないけど、すごく正直にコトバが出て来た」と村上に感謝している。
 音楽の言語化について、スタンスの違いが明確に出るときもある。ベルリオーズ『幻想交響曲』の三種類の演奏について村上は、トロント交響楽団のときは「音楽がたなごころの上で跳ねて踊っている」、ボストンは「手のひらに音楽を包んで大事に熟成させている」、サイトウ・キネンでは「手のひらを少しずつ開いて、音楽に風を通し、自由にさせている」と表現する。
 これに対して小澤は「そう言われてみればそうかもしれない」とさらりと受け流す。
 村上は音楽家ではないが、音楽家のように創作する。第二回のトークセッション後に置かれたインターリュード「文章と音楽との関係」で村上は、自分は音楽から文章の書き方を学んだと告白している。一番大事なのがリズムで、「文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです。前に前にと読み手を送っていく内在的な律動感というか……。(中略)僕はジャズが好きだから、そうやってしっかりとリズムを作っておいて、そこにコードを載っけて、そこからインプロヴィゼーションを始めるんです」
 巻末には、二〇一三年のサイトウ・キネン・フェスティバルで、村上がかねてから称賛しているジャズ・ピアニストの大西順子が小澤とガーシュイン『ラプソディー・イン・ブルー』を共演したときの「実況中継」がおさめられている。
 ここでもポイントはリズムだ。村上は、自分が愛でる大西の特殊なリズム感を次のように表現する。
「表層的なリズムの内側に、もう一つのリズム感覚が入れ子のように埋め込まれ」、その複合性が聴くものの身体に「ずぶずぶと食い込んでくる」
 小説は書けば作品になるが、音楽は作曲しただけでは十分ではなく、演奏されてはじめて作品になる。村上が引き出してくれた小澤の言葉から、読者は音楽が生まれる瞬間を、刻々と変貌していくさまを体験する。そしてまた村上が音楽について語る言葉を通して、ゆらめきとらえがたい神秘の律動を体内に取り込むことができるかもしれない。

 (あおやぎ・いづみこ ピアニスト・文筆家)

小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮文庫)978-4-10-100166-1