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書評・エッセイ

山崎豊子さんの残したもの

――山崎豊子『約束の海』

大曽根幸太

 海上自衛隊の若き潜水艦乗り・花巻朔太郎二尉が経験する遊漁船との衝突事件と、多くの犠牲者を出したがゆえの苦悩、そして成長を描く『約束の海』。自衛隊からマスコミまで、多くの登場人物の思惑が蠢く中、恋あり、涙あり、葛藤あり、男気あり、波瀾万丈、究極の人間ドラマが展開される、この最後の長編小説を書き上げた直後の昨年九月二十九日、山崎さんは残念ながら鬼籍に入られた。取材チーム最年少として、この小説が何を伝えるべくして生まれたのか、振り返ろうと思う。
 原因不明の疼痛に悩まされていた山崎さんは、ご自身による取材が難しくなり、新しい小説の執筆依頼をずっと断っておられた。だが、東日本大震災を経て、「戦争を知らない世代に平和とは何か、今一度問いたい」という、おそらく使命感から、病を押して再度筆を執ることを決意され、『約束の海』は始まった。
 まず、山崎さんのため、目となり耳となるチームが編成された。五十年以上先生を支えてきた秘書の野上孝子さんとスタッフが取材を行い、映像に収め、報告する。少し遅れて二〇一一年冬、チームの一員に加わった私は、「自分に果たして、務まるだろうか」という不安を抱いた。なんといっても山崎さんは、スケールの大きな小説で、多くの人を魅了してきた作家である。一方、当時の私はまだ入社二年目の二十四歳に過ぎず、経験不足もいいところだった(なぜ、若輩者が選ばれたか、後に明らかとなる)。
 山崎さんにとって、小説の舞台となる潜水艦は、これまで扱ったことのない未知の領域だったから、DVDを見るだけではなく、ご自分の目で、肌で、感じたいという隔靴掻痒のお気持ちだったはずだ。同時に、これまで戦争を否定していたにもかかわらず、自衛隊を題材にするということへの迷いもあっただろう。そうした葛藤を抱えながらも、取材チームに対して、ある時は厳しく、ある時は優しく励まして下さった。
 取材で求められたものは多岐にわたる。一端を明かせば、潜水艦は日米のものを見せてもらったし、材をとった事件の関係者の多くにも直接お会いし、当時のことを伺った。ある元潜水艦乗りは事故を振り返り嗚咽し、息子を失ったご遺族は、未だ癒えぬ喪失感の中に生きていた。二十六年前には、知ることのできなかった彼らの心情は、山崎さんの心に響き、小説の中に息づいている。
 まず事実を積み重ねていく先生は、事故後開かれた海難審判の原資料入手にも拘った。作業は難航し、先日成立した特定秘密保護法すれすれながら、なんとか入手し届けると、「これで小説が書ける」と満足された。
 ある程度素材が集まり、執筆が始まると、妥協の無さは更に発揮される。原稿を読んで、私が阿るような感想を送れば、「本心はどうなの。具体的な感想を言ってください。単なるほめ言葉はいりません」と見透かされる。一切のおべんちゃらが通じないのである。
 特に、私は二十八歳の主人公・朔太郎と年齢が近いこともあり、音楽の趣味から、普段の服装、どういうことに悩むのか、さらにはどんな恋愛をするのかまで聞かれた。人間守勢に回ると弱い、淡い青春の一ページをムリヤリ聞き出されたときは、恥ずかしさのあまり顔から火が……。山崎さんにとって、これまでの主人公と、世代も年齢も一回り以上違う朔太郎が何に迷い、乗り越えるのか、人物造形に悩みつつも楽しまれていたようだ。
 いよいよ連載開始を間近に控え、私は直前に週刊新潮に掲載される山崎さんインタビューの大役を与えられ、四苦八苦の末先輩と原稿をまとめ、掲載誌を一人でご自宅に持参することになった。暑さに弱い山崎さんには辛い時期だったので、当初はお会いできない予定だったが、元気なお姿を見せられ、「ありがとう。すぐに第二部にとりかかります」と、ついに連載が形になる喜びと、読者の声を早く聞きたいという期待の笑顔を浮かべられた。だが、結局、この訪問が、生前の山崎さんとお会いする最後の機会となってしまった。
 書きたいことはまだまだたくさんあったと思うが、残された『約束の海』を読むと、心が強くゆさぶられる。戦争とは何か。苦難に直面して何を選ぶのか。勇気とはなにか――。それは山崎さん自身が絶えず問いかけ、求め続けたものであり、今を生きる私たち一人一人が答えを出さなければならないことなのだろう。

 (おおそね・こうた 山崎プロジェクト室、週刊新潮記者)

山崎豊子『約束の海』978-4-10-322823-3