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書評・エッセイ

「人の世の幸せ」――稗つき節と「新平家」

――吉川英治『新・平家物語(一)(二)』(新潮文庫)

吉川英明

「新・平家物語」は戦後の昭和二十五年、英治が満を持して世に問うた大作である。英治は終戦と同時に、読売新聞の「新書太閤記」の連載を打ち切り、当分の間ペンを擱くとして、文字通り晴耕雨読の日々を過ごし始めた。疎開先の青梅吉野村でのことである。
 しかし、出版界は新しい文芸作品に飢えていた。さほど時間も経たないうちに新聞社、出版社の編集者たちが吉野村に押しかけ始め、戦後の数年間、我が家の応接間は、連日小さな記者クラブの観を呈していた。
 後で知ったことだが、そうした各社の原稿争奪戦の中で、朝日とは比較的早くから連載の約束が出来ていたという。いろいろなテーマが双方から出ては消え、最後に「新平家」が残った。初めは日本の敗戦と照らし合わせて壇ノ浦からと思ったらしいが、次第に構想が膨らみ、清盛の青年期から平家の滅亡、そして頼朝の死に至る半世紀の時の流れを主人公に据えた一大叙事詩ということになった。
 五年間の鬱々とした気持ちも吹っ切れて、持ち前の創作への熱意がたぎり始めたと思うのだが、その時の英治にはもう一つ、大きな喜びがあった。八年ぶりに妻文子の胎内に新しい命が芽生えていたのである。
 二十五年四月、「新平家」の週刊朝日への連載開始に続いて、六月、女の子が生まれた。
 何しろ、長男の私とは一廻り、末の妹とでも八つ違いの赤児である。英治の喜びかたはもう手放しだった。五十八歳で出来た児である。孫が出来たようなものだったのだ。
 戦後初となる大作の連載開始と、八年ぶりの女児の誕生、英治を奮い立たせるお膳立てが整った。医師に勧められていた懸案の盲腸の手術も済ませ万全を期した。週のうち半分は徹夜という生活がまた始まり、英治が書斎に座ると、そこには以前の近寄り難い静寂が張り詰めた。
 この年の十二月、最初の取材旅行に出掛けた。伊勢から、中国、四国、北九州の平家の史跡巡りだったが、土産に一枚のレコードを持って帰った。レコードとは又妙な、と思ったが、それが稗つき節だった。宮崎県の椎葉の山奥に、平家の落人追捕に向かった那須余一の弟大八郎と、平家の姫の悲恋が歌われていた。今では有名になったが、当時関東で知る人は少なかったと思う。
 英治はこの歌とその伝説が気に入り、家族はおろか訪ねてくる人の誰彼を問わず聞かせていた。週刊朝日が長谷川如是閑氏を招いて対談した時にも、氏にお聞かせして二人で涙している。そして後に「新平家」の終盤で戦乱の世の陰に咲いた哀話として使っている。
 もう二十年も前のことになるが、私は二度椎葉へ行った。宮崎市内から車で三時間近くかかる山また山のその奥だった。しかも、東京二十三区の四分の一ほどもある森と山の中に五千人の住民しかいない。今から八百年前に人が住んだとは信じられないほどの秘境だった。
 そこまで逃げた末、追捕の兵が現れた時の落人の絶望感はいかばかりのものだったろう。
 しかし俗世から隔絶された大自然の中での人々の平和な営みに大八郎の戦意は失せ憧憬に変わる。地上の血みどろな争いにほとほと嫌気がさしてしまったのだ。そして、平家人の命を救おうと降伏を勧めるうち、一人の姫と恋に落ちて児まで生す。大八郎の姿に郎党たちも次々と武器を捨て、椎葉に土着する。
 数年後、大八郎は陣抜けの罪を晴らすため、断腸の思いで一人里に下りるのだが、英治はその後の彼について、いくつか残っている言い伝えを否定し「頼朝の死後、機会を得て椎葉に帰ったとみるのが自然ではないか」と二人の恋に救いを与えている。
 英治が「新平家」で書こうとしたテーマのひとつである「人間の幸せとは」を具現した挿話なのだ。
 更に英治は最終章で、物語の最初から登場して、戦乱の半世紀を生き抜いたしがない老夫婦が、満開の桜の下で花見をする情景を描き「何が人間の幸福かといえば、まあこの辺が人間のたどり着ける、いちばんの幸福だろうよ」と語らせて、この長大な物語を締めくくっている。
 私が椎葉で深く印象に残ったのは、今でもそこに那須姓を名乗る人が多いことだった。

 (よしかわ・えいめい 吉川英治記念館館長・吉川英治氏長男)

吉川英治『新・平家物語(一)(二)』(新潮文庫)978-4-10-115470-1