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書評・エッセイ

「昔はよかった」幻想の罪と罰

――大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本 古典文学で知るしたたかな日本人』

稲泉連

 例えば「家族」を舞台にした凄惨な事件が起こると、決まって出てくる反応の一つに「昔はよかった」式の声というものがある。それほどあからさまな形でなくとも、親による子供の虐待や少年犯罪、お年寄りの介護をめぐる悲劇……などが報道されるとき、ワイドショーでは当事者がいかに「とんでもない母親」であったかが強調されたり、現代の家族が抱える病理や地域共同体の崩壊が出来事の背景にあるかのように分析されたりする。
 こうしたニュースに触れて心に妙なざわつきを覚えるのは、その言葉の背後に「母親(父親)とは本来、こうあるべきだ」「家族にはもともと、こうした機能が備わっていたはずだ」という前提が見え隠れしており、一方でそんな「理想の○○像」とは程遠い自分の姿に気づかされるからではないだろうか。
「昔はよかった」という解釈に安易に従ってしまうと、事件の「向こう側」と「こちら側」の線はあまりに曖昧に感じられ、不安を掻き立てられる。そのことに過剰に生きづらさを感じてしまう人もいるというから、そのような「理想と現実」のギャップに苦しむことの方がむしろ「現代の病理」なのではないかとさえ思ってしまう。
 何か事件があると湧き上がる〈近ごろの母親は無責任だ〉〈近ごろの子は切れやすい〉〈叱られ馴れていない〉〈戦後の教育が間違っている〉といった声――本書の著者・大塚ひかりさんも、それを聞く度にいつも〈違う! と一人で叫んで〉いたと語る一人だ。
 そこで彼女が本書で試みるのが、四十年間にわたって読み続けてきた古典の中から、残虐なシーンをあらためて収集することだった。〈善悪問わず、現代人がやったていどのことは、とっくの昔に誰かがどこかでやっている〉ことを古典に学び、現代特有のものとして語られがちな様々な「社会問題」に、別の角度から光を当ててみようというわけだ。
 男遊びを続けて家に帰らず、乳飲み子を飢えさせる母親(『日本霊異記』)を振り出しに、泣いている子供を捨てろとシングルマザーに迫る村(『かるかや』)、子供を捨てたり遊郭に売ったりする親、それに乗じて「貧困ビジネス」を企てる大人は枚挙にいとまがなく(『雲萍雑志』他)、「キレる若者」(『古事記』)も出てくれば介護地獄に陥った人々も登場する(『沙石集』他)。
 著者はそれらの物語を「育児放棄(ネグレクト)」や「電車内ベビーカー的論争」「マタハラ」、さらには「ブラック企業」といったキーワードとともに語ると同時に、当時の後景としてあった社会状況、家族や子供をめぐる今とはかなり異なる価値観を、ときに毒舌、ときに古典中の「残酷物語」への偏愛的ともいえる眼差しを交えて描いている。
 例えば『今昔物語集』には、生活に困窮する中で男に誘われたと思しき女が、二人の乳飲み子のうちの一人を捨てなければならないと語り、それに同情した老女が一人を貰い受けようとする話がある。
 考えさせられるのはこれが〈身勝手な母親〉と非難されるのではなく、むしろ美談として語られているシーンなどを読む際で、無意識のうちに自明のもとして扱われている「母親とはこうあるべきだ」というあり方が根底から覆された思いがする。そうしたいくつものエピソードを読み進めながら導かれるのは、〈人間というのは、放っておくと自己中心的で残酷な生き物で、子を遺棄する親も、残虐行為に手を染める少年も一定数はいるものだ〉という実感なのだった。
 しかし、著者がそれらのエピソードを繰り返し語ることで伝えようとしているのは、「昔の日本はひどかった」から「いまは良い時代だ」という身も蓋もないメッセージではない。
“いま”の時代を生きる私たちには、当たり前過ぎて見え難いものがある。大塚さんは現代の価値観から見れば残虐かつ悪質なシーンを敢えて取り上げることで、その見え難さゆえに過去に理想を求めがちな諸問題の別の姿を浮かび上がらせようとしているのだ。古典の中で繰り広げられる人々の営みを読む意味や醍醐味は、人間のありのままの本質を照らし出し、がんじがらめに見える常識に風穴を開けてくれるところにあるのだ、と。
 だから、残虐なシーン満載であるにもかかわらず、本書の読後感にはどこか気持ちを楽にさせる爽快感がある。その意味で軽妙な古典エッセイとして気軽にも楽しめる本書は、古典の物語を味わう上での良質な入門書にもなっているのだと思った。

 (いないずみ・れん ノンフィクション作家)

大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本 古典文学で知るしたたかな日本人』978-4-10-335091-0