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書評・エッセイ

赤川次郎の心地よいマジック

――赤川次郎『月光の誘惑』

冨士眞奈美

『月光の誘惑』は私が初めて読んだ赤川作品である。
 え? どうして? と赤川ファンから叱られてしまいそうだが、ある偏見が私をして赤川作品から遠ざけていたのかもしれない。赤川さんは二、三十年前、その頃公表されていた高額所得者番付にいつもその名を列ね、私の好きな売れない物書きはいつまでたっても貧乏を嘆き、志の高低を問題にして羨望による嫉妬をなだめていたのだった。そこで私も、若い人による若い人のための小説なんて、いくら評判が高くても読むことはないわ、と思っていたのである。それからずいぶん時が経った。
 ではなぜ『月光の誘惑』か。いまごろ。
 きっかけは朝日新聞に連載されていた「三毛猫ホームズと芸術三昧」である。オペラ評を読んでまず驚き、連載の愛読者になった。前衛的な作曲家シェーンベルクによる「モーゼとアロン」。エジプトを彷徨うユダヤ人のオペラ、なんて私は観ている間じゅうわからなくて退屈して脳が大アクビをしていたのだが、赤川さんの論評は立派なものであった。なるほど、そうか、と目からウロコが剥げ落ちた。毎週、掲載が楽しみになった。歌舞伎、新派、演劇、文楽、能狂言まで、当たるを幸いなぎ倒し、みたいに超多忙な作家は興味の翼を拡げ、外国にも楽々足を伸ばすのである。震災後は政治的な発言もきっちりあり、四年半の連載が終わってしまった時は本当にガッカリして、新聞宅配を中止したくらいである。
 そこで「赤川次郎」さんに興味を持ち、小説新潮連載の「月光の誘惑」を読むようになった。
 それが。不思議なのである。易しい文体でサラサラと書かれた物語は、平明なようで展開は非常に大胆なのだ。下半身すっきり、といった紙面は読みやすく、視覚的にも圧迫感がなくて、大変脳に馴染みやすい。面白い。もっと読んでいたい、という気持ちにさせられる。こんな読書体験、読後感は初めてだ。プロローグからして、女高生が自殺しようと(動機みたいな面倒なものは一切書かれていない)バスに乗り、岬で降りる。するとそこへ若い女が幼女を連れて歩いてくる。話しかけ、女の子をあやすうち、突如、若い女は駆け出して岬から消える。子供を置いて母親が飛び降り自殺をしてしまったのだ。女高生は、幼女を連れ帰り、結局育てることになる。十五年後、両女性を軸に物語は進んでゆく。とんでもない展開もあって、びっくりするのだが、飄々として嫌味などまったくなく、清潔感に溢れ、いらぬ説明や心理描写は皆無。淡彩なハードボイルドタッチを楽しみながら、人々の織りなす喜怒哀楽を覗き見るのである。
 不思議な魅力がある。というか、魅きつけられるのは、一種の精神療法に近い効用のある文章であり、文体なのか。マジックだ、と思った。いくらでも読める。心地よくマジックにかかって、物語を楽しんでいればよいのである。
 ご本人と一度、お会いする機会を得た。「銀座百点」というタウン誌での鼎談だ。ドイツ文学者の池内紀さんがホストで、好リードにより、謎が解けた。
 サラリーマン生活を十二年なさり、うち二年間は作家と兼業。「三毛猫ホームズ」が売れに売れ、以来、三十六年ひたすら締め切りに追われる生活。著作は五百六十冊、部数はなんと三億冊余。
「どんな話になるか作者にもわからない。書いてるうちにイメージがはっきりしてくる」と仰る。そんな作り方が読者をいくら読んでも読みたりないような感じにさせるのかも。「ミステリーなので構成をきちんとしなきゃいけないんですけど」。いやいや人生もそうだけど、なにごとも辻褄は合っていないものです。厳密にいえば辻褄が合わなくても小説が面白く読めれば問題はありませんよ。
 池内先生の解釈はピッタリである。
 赤川さんは中学高校時代、ドイツ文学と古いフランス映画に明け暮れたそうである。
 ゲーテに始まり、ヘルマン・ヘッセ、シュテファン・ツヴァイク。ツヴァイクは好きが高じてザルツブルグのツヴァイクの山荘まで出かけたとか。ヘッセの『ガラス玉演戯』など、池内さんが、あれを御存知の方はまずいませんと感心されたほどの読書家であった。深い知識が蓄積されての、洗練単純化だったのだ。
 なにしろ『月光の誘惑』、不倫あり邪恋あり自殺あり、と道徳も倫理(古い!)もなくアナーキイなのだが、決してドロドロしない。読後感は爽快。この清潔感は赤川さんのお人柄そのもの。赤川マジックに浸り続ける女性が多いのも頷けるのである。

 (ふじ・まなみ 女優)

赤川次郎『月光の誘惑』978-4-10-338137-2