TOP > 波 -E magazine Nami- > 書評・エッセイ

波

書評・エッセイ

『冬眠する熊に添い寝してごらん』刊行記念特集

舞台初日三時間前のメッセージ

古川日出男

 演出家の蜷川幸雄さんと対決した。僕は「喧嘩をした」とかそういうことを言っているのではない。小説家としてこの演出家と対決した。勝敗の行方はわからない。もっと正確に語るならば、まだわからない。なぜならば、いまは二〇一四年の一月九日だからだ。それも午後二時半を回ったばかりだからだ。この日の夜には、僕の個人史の「重大事件」が起きる予定となっている。午後六時半に、舞台『冬眠する熊に添い寝してごらん』が開幕するのだ。その初日が。
 この舞台を、実際に観るまでは、勝敗の行方はわからない。
 対決などという大それたことをするつもりはなかった。対峙しようと決めていただけだ。あのニナガワに戯曲を依頼されたのだから、一〇〇パーセント本気で書こう、と。差し向かいになり、「おれは一人の小説家として曝(さら)されている」と感じながら筆を執りつづけようと。そして、そうした。できあがった戯曲は、どうやら蜷川さんを本気で困惑させている。つまりここに“本気”対“本気”がある。
 つまりここに、対決があった。
 これから四時間弱のあとに劇場の観客席に座るだけの身からいえば、なにしろ脚本家の立場というのは孤独だ。開幕し、それから幕が下りるまで、僕は「どんなものが生まれたのか、生まれるのか」がわからない。一方で、それは半分僕の作品だと、もう公にアナウンスされている。これほど不安定な立場に置かれる状況は、まず、他にはない。そこにも対決の一つの要因はあるのだと思う。僕が、たとえば劇団の座付き作家ならば、こうはならない。稽古場に控えつづけるだろう。あるいは脚本家兼演出家だったら話はぜんぜん別だ。
 しかし、僕はどこの座にも付いていなかった。
 そして、小説家としてそれを書いた。その戯曲を。
 結論からいえば(これは一つの訓(おし)えだ)小説家というのがそもそも孤独なのだ。あるいは文学者というのが孤独なのかもしれない。いっぽうで演劇、そこに携わる演劇人というのは、孤独とは違う位相にいる。だからこれは、もっと大きな“図式”での対決でもあるのだ。
 書いている間の僕の孤独は徹底していた。プロの小説家となって以来初めて、コンピュータでの執筆を避け、仕事机での執筆ですら避けて、ダイニング・テーブルに横罫のノートを置き、そこにボールペンで書いていった。二〇一四年の現在、コンピュータはほとんど「スタンドアローン」にならない。これを筆記具とするだけで、意味不明に“世界”とつながってしまう(メールめ! インターネットめ!)。本当に一人になるとはどういうことか。それを僕は試した。そして、「どうせ上演される舞台には、おれは決していないのだから」と、異様な分量のト書きを書き込んでいった。
 ト書きとは、脚本そのものとそれを生み出している脚本家の対話であり、台詞とそれらの台詞を産み落とした脚本家の対話である。孤独の極北。しかし、孤独の結晶こそが文学的豊饒だと信じ、挑みつづけた。
 最終的に原稿枚数に換算したら、三〇〇枚弱になった。それがこのたび刊行される単行本版の『冬眠する熊に添い寝してごらん』である。この戯曲は一幕ものだ。が、脱稿後に制作サイドから注文があった。「お客様のために休憩時間を用意したいので、二幕ものに変えていただけませんか」。
 僕は変えた。変えるのみならず、上演時間そのものの短縮も図った。構成も変えた。結局、オリジナルから五分の一を削った。
 それが上演台本版の『冬眠する熊に添い寝してごらん』で、文芸誌「新潮」の二〇一四年二月号に掲載されている。
 だが、報告によれば、稽古場でもいろいろと起きている。今晩から上演されるのは――いまは一月九日の午後三時になったから、あと三時間半で開幕だ――上演台本版のアレンジ版となるだろう。いったいどうなっているのか。
 単行本は、僕にとっての完全版であり、残すために仕上げた。一方で舞台とは、消費されるものである。それこそが商業演劇である。しかし、本当に消費されるだけなのか。それにニナガワは否というのか。
 言ってほしい。勝敗は今晩、決まる。怖い。

 (ふるかわ・ひでお 小説家)

古川日出男『冬眠する熊に添い寝してごらん』978-4-10-306075-8