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書評・エッセイ

危険な謎

――トム・マッカーシー『もう一度』(新潮クレスト・ブックス)

柴崎友香

 たとえばテレビで風景の美しさに感動した場所を訪れてみて、予期していたほどの感情は湧いてこない代わりにその場にいる確認として記念写真を撮るときのちょっと居心地の悪い感じ。あるいは、ふと通りかかった坂道の途中で、突如記憶や感情がよみがえって、思いがけず動揺する感じ。そんな覚えのある、つまりたいていの人が、この小説に書かれていることに無関係ではいられないと思う。
『もう一度』は、とある謎から始まる。なにかの事故で「僕」は瀕死の重傷を負ったらしい。どうやらそれは国家機密に関わることのようで、「僕」は一切口外しない代わりに巨額の示談金を得る。
 体は回復し、新しい生活が始まったものの、「僕」の記憶は不確かなまま。偶然見かけた壁のひび割れから、失った記憶が「再現」されるように甦ってくる。その「感じ」にとりつかれた「僕」は、示談金をつぎ込んでその光景を実際に「再現」しようと試みる。
 しかし、主人公が確かめようとしているのは、自分を理不尽な状況に追いやった原因ではない。もっと大きな、生きている現実そのものを根本から揺さぶる、いっそう危険な別の謎である。
 最初、「僕」が求めているものがなんなのか、読者にはつかめない。たぶん、彼自身にもわかっていないからだ。
 記憶に近いアパートを丸ごと買い上げて、思い通りに改装し、記憶の中にある光景を「再演」するために普通の人々を「役者」として雇い何度も動作を繰り返させる。階下から漂うレバーを焼く香り、同じところで間違うピアノの音、差し込む日差しの角度。偶然の手を借り、「僕」の記憶にある光景は細部まで完成されていくが、「僕」の関心はまた別のある「瞬間」に移り始める。
 細部の描写や人間に対する観察は、イギリスらしいシニカルさがちりばめられているし、計画を加速度的に進めていく展開はとてもスリリングで、要するにとてもおもしろくてページをめくってしまうのだが、だんだんと「僕」が常軌を逸して狂気とも言える行動に踏み込んでいくことに気づく。
 もしかしたらこれ以上読み進めないほうがいいのではないか、という怖れのような感情がふと胸をよぎるが、でも、当然、読んでしまう。わたしたちも、その「謎」について知りたくて仕方がないからだ。
 常軌を逸していく「僕」だが、もう一人重要な人物がいる。「僕」の壮大かつ無謀な計画の段取り、進行をすべて取り仕切る、その名も「タイム・コントロール社」のナズだ。「両目の奥でなにかがブンブン音を立てて」精密機械が動いているかのような超有能なナズも、自分の手がけた進行が予定通りに進むこと、つまり時間を世界をコントロールすることに魅せられる。自分の感情をほぼ話さないナズの微妙な表情が、「僕」の希求するものがいかにあやういものかを、際立たせる。
 記憶が混乱し、体の機能も一時的に失っていた「僕」は、「意識すること」と「動くこと」のつながりを取り戻そうとする。その感覚は、様々なメディアによる「再演」だらけの今の世界に生きるわたしたちにも、すんなり当てはまる。自然に、無意識に動くことの困難さを、こんな突拍子もない方法で語ることができるのかと驚かされた。
 拡大していく「再演」のスケールと強度は圧巻である。自分が当事者でない経験の次は、まだ起こっていない事件さえ「再演」を計画する。そこにあるのは「リアル」に対する強烈な渇望と陶酔だ。
「僕」は手段を選ばなくなり、完璧だと感じるその瞬間を無限に引き伸ばし、繰り返そうとする。微分法のように、なんとかその地点の解を求めようとする。その欲望が辿り着くゴールは果たして存在するのか、それとも……。
 知りたい欲望を抑えられない読者もまた、ページをめくる快楽に身を任せていると後戻りできない場所に巻き込まれていたことに気づく。
「リアルになりたい、よどみなく自然になりたい、ただそれだけ」というなんでもなさそうな、努力して求めるものとは考えられていないようなことが、いかに困難で、もっと言えばほぼ得難いものだということを、この小説は明らかにしてしまった。読み終えたわたしも、もう「普通」が「普通」でなくなってしまったかもしれない。

 (しばさき・ともか 作家)

トム・マッカーシー著/栩木玲子訳『もう一度』(新潮クレスト・ブックス)978-4-10-590107-3