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対談・鼎談

新潮クレスト・ブックス短篇小説ベスト・コレクション
『美しい子ども』刊行記念座談会

短篇小説はこんなにも自由だ

池澤夏樹 × 津村記久子 × 松家仁之

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何を書いてもいい

――シリーズ創刊15周年を記念して、〈新潮クレスト・ブックス短篇小説ベスト・コレクション〉『美しい子ども』という本を刊行します。ミランダ・ジュライ、ジュンパ・ラヒリ、ネイサン・イングランダーのフランク・オコナー国際短篇賞受賞作3冊を含む11冊のなかから、松家仁之さん(創刊時編集長)に選んでいただいたアンソロジーです。マンロー、シュリンク、ウリツカヤから、ドイツやベルギーの新人まで全12作。まずは、ご感想をうかがえますか。

池澤 みんなまだこんなにも家族のことを書いているのかと思いました。家族というのは永遠のテーマで、長篇にも短篇にも使える。たとえばジュンパ・ラヒリの「地獄/天国」は、小さな長篇といってもいい。娘の視点からお母さんの生涯を描いていて、短篇の域を超えている。一方で、アンソニー・ドーアの「非武装地帯」みたいに、ひねりの効いた、いかにも短篇らしい密度の高いものもある。それからベルンハルト・シュリンクのように過去の出来事を現在の場にずらっと並べた軋轢と解決がテーマのもの。家族の話は強いな、と改めて思いました。

津村 最初の三作を読んで、人間って何でも書くなと思ったんです。ナム・リーさんは七八年生まれでわたしと同い年、ベトナムのボートピープルの人ですが、「エリーゼに会う」という短篇の主人公はニューヨークの画家で、別れたロシア人の妻とのあいだに娘がいて、その娘が天才少女チェリストとしてカーネギーホールにやってくる――と自分自身とはぜんぜん違うことを書いている。何を書いてもいいんやなと思いました。

 クレメンス・マイヤーさんもわたしと同学年で、おじいさんの話を書いていて、ネイサン・イングランダーさんは七〇年生まれで親の世代のことを書いている。わりと若い人たちが、年上の人たちのことを想像して書いているのがすごく印象的で、どれも素晴らしくおもしろい。こういうことを書き手は、その試みが成功、不成功に終わるにかかわらず、やらんとあかんことやなと思いました。

松家 十一人の作家の短篇を並べてみると、七〇年代生まれの作家が目立つんですよ。クレスト・ブックスはデビュー作を積極的に紹介してきたシリーズなので結果として若手が多くなったこともあるでしょうが、この人たちはなんだか自由だなと思ったんです。ミランダ・ジュライもそうですが、短篇というジャンルを畏れずにのびのびと使って書いている。

 たとえばイングランダーの「若い寡婦たちには果物をただで」では、強制収容所から生きて出てきた少年がその後に何をやったか、いまは教授になったそのひとの過去が語られる。これは、ものすごくヘビーな、二十世紀が抱え込んだ大問題で、よほどの構えがないと書けない気がする。でもイングランダーは非常に自由に書いているように見えます。

池澤 おいおい、そこまで行くのかよ、と言いたくなるくらいね。

孤立した個人が出会うとき

池澤 たとえばラヒリにおいては、家族の話でありながら、移民の親との文化的衝突の話でもあり、イングランダーの場合は民族の憎悪の問題でもあり、家族のなかにさらに大きなテーマが入ってきているんですね。ずっと芥川賞の候補作を読んできたけれど、家族の小説はこんなにないですよ。

津村 年の話ばかりして申し訳ないんですけど、シュリンクさんは四四年生まれ。「美しい子ども」のフェルフルストさんは七二年生まれ。両方とも父親のことを書いているけど一世代ちがう。シュリンクさんの「リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ」のなかの父親は八十二歳で、なのにこの息子はまだこんなに父親を求めるんだと衝撃的でした。自分と母親の関係を考えると、理解できなくて当たり前という、そういう箱に入れてしまっている。この本は、世界中の人の、年代とか文化別の家族のとらえかたカタログみたいでもあります。

池澤 シュリンクの話は、戦争責任論でもあるのかな。息子が「どうして戦争に行かずに済んだの?」と訊いてるでしょう。生きているうちに訊いておかなければという気持ちがある。何がこの親子をつなぐかというと、バッハなんですね。

津村 音楽の力がふいにやってくる。最後のシーンでバッハの音楽がかかって、ふたりして歌詞に耳を傾けていると、融和する瞬間が訪れる。それが外側からやってくるのが面白くて、これは小説だけが書けることだなと思いました。

松家 音楽で一瞬つながるみたいなことがどうして可能かというと、たぶん父も息子も、完全に孤立した個人だからだと思います。海外の小説は固有名詞としての人名がくりかえし執拗に出てくるじゃないですか。日本語では人称も人名もふわっと消えてしまう。固有名詞としての名前が不動のものとしてそこにあるから、いったん決定的に離れた父と息子であっても、やはり父と息子なのだという否定できないお互いの認識が生まれる。

池澤 肉親だからって馴れあわない。

松家 日本の家族は、お互いまったく理解しあわないように見えても、どこかで曖昧にずるずる繋がって切れない感じがあって、だからこそ、とりあえずわからないまま放っておけるのかな、と思わないでもないです。

津村 いますからね、そこに。そこにいなければ、強烈に知りたいとか、会いたいとか、思うかもしれない。

誰もが持っている話

松家 このアンソロジーに出てくる家族では、「美しい子ども」はやや異質かもしれませんね。離婚したり別れたりした男兄弟が、つぎつぎと母親の暮らす実家に帰ってくる。

池澤 ベルギーの田舎なんだけれど、むしろ僕は地中海っぽいと思った。ギリシャが舞台の「マンマ・ミーア」ですよ。きょうだいが多くて、婿や嫁は外からきた「誰か」でしかない。あれがベルギーの田舎に残ってたんだね、下品なままに(笑)。でもなくなってしまったものを戯画化して書いたのかなという気もする。

松家 「美しい子ども」は『残念な日々』という連作短篇集の第一篇ですが、最後のほうでは作家になった「ぼく」が、懐かしいはずのこの村に帰って強烈な違和感を感じている。だから書くことで過去に帰ろうとしたのかな。でも、カバーにある著者の写真をみたら、すごくハンサムなんですよ(笑)。生涯バカ男子みたいな小説の世界とはぜんぜんちがう。

津村 この顔やったらこんなこと書かんでも……(笑)。でも、もてた話じゃなく、下品なこと書いて残しておこうと思ったのがいいですよね。わかるな、と思います。子ども時代の話、家族の話というのは、誰もが持っている、自分が絶対に持っているものなんですよね。

松家 あと、選んだ短篇を並べてみて、老人が魅力的だなと思いました。「老人が動物たちを葬る」でも、老い先短いという意識をもちながら、どこか徹底して明晰であり、妥協しない。

池澤 めそめそしない。後ろ手で扉を一つ一つきちっと閉めていく。

津村 おじいさんが酒場の女の人に散髪してもらうところがすごく好きでした。すごい孤独なんやけど、散髪をしてもらえるんやって。

松家 シュリンクの父子の話もそうだけれど、ちゃんと孤独だからかえって人と出会えるのかもしれない。

津村 そうなんでしょうね。べたべたした人が甘えて「髪切ってよ」というのとはぜんぜん違う。

松家 津村さんがさっきおっしゃっていたように、ナム・リーが自分とはぜんぜん関係ない「エリーゼに会う」を書いたのはどうしてなんでしょうね。

津村 結腸がんになるということについて書いてみたかったんかな。わたしも自分はどんな病気で死ぬんやろ、ってすごい気になる時期があったんですよ。ナム・リーさんも気になってたのかもしれない。内視鏡を入れられる体験をしたとか、入れられたらこんな感じかなと考えに考えたあげくに書いたとか。

松家 内視鏡から生まれた物語(笑)。

津村 もしかしたら痔じゃないかと思ったら、違ってたみたいな。その逆でも。すみません。でも明らかに自分とちがう人間のことを、ゆっくり手を突っ込むみたいに、こんなにまで書いていいんや、ということにすごく勇気が出ました。

短篇小説と長篇小説

松家 この本を編みながら、ナム・リーのような完全なフィクションも、「美しい子ども」のように自伝的なものであっても、書き手が薄皮一枚はさんですぐ向こう側にいるような感じがしたんです。長篇だと作品と作家の距離がもっと離れていて、読んでいるうちに書き手のことを忘れるような瞬間がある。でも短篇はつねにどこかに書き手の気配が感じられる。

池澤 なるほどね。

松家 『完全版 池澤夏樹の世界文学リミックス』で短篇と長篇では時間の流れに違いがあるとお書きになってましたね。

池澤 そう、その意味でもラヒリの「地獄/天国」はごく短い長篇だと思う。均一の時間でひとつの人生が見える。短篇は、エピソード一つでいいし、ある場面から二つくらい転換して次の場面で闇になってもいい。登場人物に対して作家は責任を持たなくていい。

津村 だから若い人がいろんなことを書くのかもしれないですね。それでこの先もっと大きくして書きはるんかな。イングランダーさんの「若い寡婦たちには果物をただで」には、十三歳の息子が出てきて、父親の世代の体験を継承していきますよね。なんでお父さんは教授にそんなに親切にするんだろうと子どもが興味をもつ。

池澤 つぎの世代になっても、起こった過去について考えているんですよ。お父さんもそうだし、その息子も、なんで教授はあんなことをしたんだろう、自分だったらどうしただろうと考えているでしょう。歴史ってそういうものだと思う。

津村 何を思ったんだろうとずっと考えてるというのでは、ラヒリさんの「地獄/天国」もそうですね。お母さんが何を考えていたのかが少しずつわかっていく。結局自分たちは親のことを知らないと端的に思いました。

池澤 考えてみれば僕もそうだった。僕はこの五年間で、二十代から三十代の父親のことをようやく知ったんです。日記が出てきたから(『福永武彦戦後日記』『福永武彦新生日記』)。大変だったな、かわいそうに、と思った。

津村 親は何もかも子どもに知られたいとは思っていないのに、子どもはどこかで何もかも知ってやろうという気でいる。その攻防も面白かったです。

池澤 ラヒリの短篇の母親にも誇りがあって、必死で隠して毅然としているわけでしょ。

松家 でも子どもって見てますよね。若い男に母親が特別の感情をもっていることを見抜いている。

津村 女の人独特なのかも。

池澤 男だとぜんぜんわからないから、やがてバッハが必要になる(笑)。

松家 一方、ウェルズ・タワーの「ヒョウ」では、子どものインチキな芝居が義父に見破られている。

津村 お母さんが再婚した義父との関係、この子つらいな、がんばれよ、と思いましたね。

似た人生は同じ人生ではない

池澤 全体を見てみると、「非武装地帯」「水泳チーム」と「階段の男」、「老人が動物たちを葬る」、それから「ヒョウ」。これは僕もひょっとして書けるかな、書けたらいいなという親近感を感じるけれど、ほかはぜんぜん手が出ない。「老人が動物たちを葬る」はアリステア・マクラウドを思い出す。田舎で、動物が出てきて、最後の悲しい終わり方も。シュリンクもありうる気がする。でも、ほとほと感心するしかないというくらい遠い話もいっぱいあるでしょう。

松家 マンローの「女たち」はいかがですか。

池澤 こういう人間関係を緻密に展開するのには、とても手が出せない。「非武装地帯」が手が届く気がするのは、そこに鳥という要素がもうひとつ加わっているからですよ。故郷との距離感、父親と母親の関係、そして戦地で追いつめられてゆく感じ。この組みあわせに鳥を重ねている。

松家 傷を負った鶴を抱きかかえたときに、カタツムリの匂いがしたとありましたね。イマジネーションというより、体験か取材の産物かもしれないけれど、ああいうディテールが出てくるだけで得した気がします。自分が鶴を抱きかかえているような感じがした。

池澤 十キロもあるっていうんだから、鳥にしては重いね。

津村 マンロー、すごくおもしろくて、女の人の話ではあるけれど、病人の男の人の本能としての手管みたいなものがすごいなと思いました。

池澤 お母さんと妻とロクサーヌが等距離にある。病人はそれを繰っているのかもしれない。

松家 この短篇の最後の場面もそうですが、マンローは油断して読んでると、突然ひゅっとエロティックなところを垣間見せてどきっとさせる。本当にうまいですよね。

 イングランダーの短篇のなかに、「似た人生は同じ人生ではない。そこには違いがある」というフレーズがあって、これ、短篇小説のことみたいでもあるなと思ったんです。設定とかシチュエーションがどこか重なるようでいても、一人一人の書き手によって全然違う。こうして十一人の作品を読むと、なにか、ここにわれわれがいま生きている世界がごろんと転がっているなという気がしました。

津村 一人の作家の短篇集だとその人の世界観がいろいろな舞台装置を使って展開されていくけれど、この本を読んで、多様だな、違う人間がいっぱいいるなと思いました。すごくいい体験をさせてもらいました。

池澤 さあ、おうちに帰って自分の短篇を書きましょう(笑)。

 (いけざわ・なつき/つむら・きくこ/まついえ・まさし)

松家仁之編『美しい子ども』978-4-10-590104-2