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対談・鼎談

カンポンテラウチカンタロウイッカ完本 寺内貫太郎一家

向田邦子

2,024円(税込)

向田邦子の小説デビュー作『寺内貫太郎一家』は未完だった。遺された脚本をもとに書き継いだ決定版。

昭和の暮らしと家族を書きつづけた向田が「貫太郎のモデルは私の父である」と語り、最も愛着の深かった一作。口下手で怒りっぽいくせに情に厚い東京谷中(やなか)の石屋の主人、寺内貫太郎。が、TVドラマの肝である、娘を嫁がせるまでのゴタゴタと婚礼は小説では描かれていなかった。全集等の編集者が向田脚本で後半をノベライズ、代表作の全貌を味わえる「完本」。

向田邦子『完本 寺内貫太郎一家』刊行記念対談

向田邦子の小説家デビュー作、完結!?

「モデルは父向田敏雄である」/脚本をもとに/目から鱗の臨場感/いま読むべき長篇小説

道尾秀介 × 烏兎沼佳代

「モデルは父向田敏雄である」

道尾 ドラマはもちろんリアルタイムでなくビデオで観ましたが、第一回目に昭和五十年のカレンダーがアップになるんですよね。僕はその年の五月生まれなんです。

烏兎沼 TBS制作のドラマが昭和四十九年一月から十月まで放送され、向田邦子さんが前半部分を小説にして発表したのが昭和五十年四月。ということは、道尾さんは小説『寺内貫太郎一家』と同じ年、しかも小説が発売されたひと月後のお生まれなんですね。ひょっとして胎教はドラマの「寺貫」だったとか。

道尾 親は観てなかったと思います。僕もテレビドラマはあまり観る方でなく、久世光彦さんの小説のファンで、そこから入りました。小説を読んだあと、久世さんが『時間ですよ』『ムー一族』といったドラマの演出家だったと知って、こんな小説を書ける人のつくったドラマはどんなものかと、レンタルビデオ店で片っ端から借りて、出会ったのが『寺内貫太郎一家』でした。DVDになったときはボックスで買って、あのうれしさはなかったですね。手ぬぐいや風呂敷のノベルティがついていて、今日も持ってきました(と取り出す)。

烏兎沼 うわー。これ、もったいなくて使えないですね。

道尾 使ってません(笑)。

烏兎沼 演出家としてより先に小説家としての久世さんのファンになったのなら、ドラマをご覧になって、意外な感じはしませんでしたか。

道尾 びっくりしました。久世さんの小説にはどれも言葉で表せない幻想味があるのに『寺内貫太郎一家』は違う。小説から入った僕には本当に意外でした。

烏兎沼 向田邦子さんに対しても同じようなことを仰る方がいらっしゃいます。『阿修羅のごとく』『あ・うん』などで向田ファンになった方はテレビの『寺内貫太郎一家』を向田さんが書いていたと知ると、意外に思うらしいんです。たしかにドラマは小林亜星さん演じる貫太郎と長男周平役の西城秀樹さんの食卓をひっくり返しての大乱闘とか、樹木希林さん(当時「悠木千帆」)扮する貫太郎の母、きんが沢田研二のポスターにむかって「ジュリー〜!」と身もだえするシーンで知れわたり、遊び心いっぱいのドラマという印象が強いようです。でも向田さんご自身が小説版の「著者のことば」で「貫太郎のモデルは、私の父向田敏雄である」とお書きになっているように思い入れのとても強い作品で、小説を読み込んでいくと、笑いと涙とコミカルな動きのオブラートにくるまれている向田作品の深さをひしひしと感じます。

脚本をもとに

道尾 僕は向田さんの文章も大好きで、エッセイから小説と読み進み、この小説を読んだのはドラマを全部観た後でしたが、家族ドラマの理想形で、こんな素晴らしい読みものはないと思いましたね。人は死なないし、突拍子もない事件が起こるわけでもない。取り返しのつかない悲劇は起こらないとわかっていながら、でも悲劇自体はあり、人の哀しさややさしさが巧みに描き込まれている。それに文章、会話、キャラクターの造型が見事です。

烏兎沼 読み終わったとき、「この小説、終わってない」と思いませんでした?

道尾 思いました。ドラマ版ではいろんなものが詰まった、もっと大きなフィナーレがあり、小説で描き切る力は向田さんには充分おありになったはずなのに、小説がこれで終わりというのは、考えにくかったです。僕も物書きの端くれなので。

烏兎沼 小説『寺内貫太郎一家』はドラマ(全三十九回)が終わった半年後に刊行されています。最終回の瞬間最高視聴率が四十二%を記録した国民的ドラマで、『パートⅡ』がつくられることになり、この放送開始にあわせて出した向田さん初の単行本でした。ただ時間的な制約があったのか、あるいは単行本一冊分の枚数に達してしまったからなのか、理由は謎で、わからないのですが、向田さんは全三十九話の前半だけをセルフノベライズなさった。『向田邦子全集〈新版〉』と『向田邦子シナリオ集』の編集をするなかで、後半もノベライズして物語を完結させた方がいいのではないかと思い、向田和子さん(向田邦子の実妹)にご提案したところ、「どうぞ」と仰ってくださり、まとめさせていただくことになったのです。

道尾 小説新潮で「続・寺内貫太郎一家」(原作・向田邦子、構成・烏兎沼佳代)が始まったときは、こんなことをやってくれる人がいると思わなかったし、出来ると思わなかったんですね。でも連載第一回を読んだら、登場人物が長い昼寝から目覚めて動き始めたみたいな感じで、本当に感動して、毎月読むのが楽しみで仕方なかったんです。これ、どうやって「続」を書いていったんですか?

烏兎沼 もちろん脚本をもとにしました。向田さんの脚本は全部残っていますし、向田さんのセルフノベライズという、これ以上はないお手本があります。毎回、書く前に頭から通して読むことを課していました。志としては、前半を読んで「続」に入っても、著者が変わったと気づかれないようにすること、それを目指しました。難しくて、とても出来ませんでしたが……。

道尾 文体を完璧に模写されてますよね。連載の三回目に「湿(しめ)りをくれて」という言葉が出てきたときはびっくりしました。この言い回しは向田邦子さんの『あ・うん』以外の小説で出会ったことがなく、その辺まで研究されているのか、それとも筋金入りになると、自然と同じ表現が出てくるものなのかと、あれこれ想像していました。

烏兎沼 向田さんは、脚本は小説のように、小説は脚本のように書かれた方で、脚本にはそのまま小説に起こせるト書きがたくさんあります。セルフノベライズなさった小説版は、役者の演技や演出によって膨らんだテレビ的なところを意識して排除したのではないかと思われ、同じ放送一回分を小説に起こすと、「続」の方が枚数が多くなってしまいました。一話あたりの枚数をほぼ同じにしたかったんですが、もったいなくて私には削れなかった。長いものは長いままで、回数だけは前半に揃え、全十二話にしました。

目から鱗の臨場感

道尾 烏兎沼さんも踏襲されてますけど、向田さんはドラマの手法を大胆に小説に持ち込み、会話の間に説明を入れず、セリフだけで場をつないでいます。小説しか書いていない人間には、この手法は何が起こっているのか読者に伝わらない可能性があるので、怖くて手が出しにくいんです。小説「寺内貫太郎一家」のなかで、町内のお祭りのあと、貫太郎が奉加状をひろげ、寄付金の額を口に出して確認していると、妻の里子が横から話しかけ、会話だけがつづくというシーンがあります。これはもう全文を引用しないと上手く伝わらないのですが、とにかく会話文の中に何とも言えない巧みな仕掛けを入れ込んである。そして貫太郎が「見ろ! 同じの二度書いちまったじゃないか」と怒る。ここを読んだとき、この臨場感の出し方に目から鱗が落ちました。おかしみも出せますし。このあとの会話もまた素晴らしいので、是非読んで欲しいです。

烏兎沼 私もとても勉強させていただきました。当たり前のことですけど、脚本はセリフとト書きしかなくて、気をつけないと、ノベライズはセリフにつづけて「〜と言った」ばかりになってしまう。

道尾 僕も小説のなかで「〜と言った」はなるべく使わないようにしています。

烏兎沼 よくよく考えると、人間がなにか言うのは、道尾さんが例として出されていたように何らかの目的があるか、感情が渦巻いているから「言う」のであって、「〜と言った」を使わないようにして書くのが第一の課題でした。

いま読むべき長篇小説

烏兎沼 私ごときが書き継いでいいのかと、連載時は毎回不安との戦いでした。連載を開始した時、道尾さんがご自身のツイッターで取り上げてくださって、本当にありがたかったです。書き始める前は、毎月必ず道尾さんのツイッターを読んでいました。

道尾 久々でしたよ、連載が終わってしまうのが残念で泣いてしまったのなんて。ビデオやDVDで観ているのに、最終話の物語のフィナーレは、読んでいて涙が止まりませんでした。

烏兎沼 うわあ、うれしいです。「四十年近く前に書かれた小説の続篇を、どうして今、書き継ぐんですか?」と訊いてくださる方もいて、向田さんの三十三回忌にあたるのでとか、それは読んでのお楽しみですなどとお答えしてきました。

道尾 月並みな言い方になってしまいますが、東日本大震災もありましたし、いままさに読むべき長篇小説だと僕は思います。ここには、家族や人のつながりとか、親が子を思い、人が誰かのことを思いやる心がストレートに「こういうものだ」「ここまで自分の心を人前に出していいんだ」と見事に描かれています。

(みちお・しゅうすけ 作家)
(うとぬま・かよ 編集者・作家)

向田邦子『完本 寺内貫太郎一家』978-4-10-338204-1