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書評・エッセイ

ブンシノユウジョウヨシユキジュンノスケノコトナド文士の友情―吉行淳之介の事など―

安岡章太郎

1,672円(税込)

かつて、〈文士〉と呼ばれた男達がいた。彼らは切磋し、共に笑い、人生を生き切った――。

2013年1月に逝去した文豪が晩年に振り返った、類稀な友人たちとの人生の時間。吉行淳之介の恋愛中の態度に驚き、遠藤周作にキリスト教受洗の代父を頼み、島尾敏雄の戦後の苦闘に思いを馳せ、小林秀雄に文士の心得を訊く。かくも豊かな友情がありえた時代の香りと響きを伝える名品集。「悪い仲間」で出発した安岡文学の芳醇なる帰着。

安岡の文章

――安岡章太郎『文士の友情 吉行淳之介の事など』

阿川弘之

 此の度安岡章太郎の、歿後初(はつ)の作品集「文士の友情」が新潮社より刊行されることになり、内容の一部概要、あらかじめ読者に披露して置く役目が私のところへ廻つて来た。去る四月末、自著「鮨そのほか」を出してもらつた義理合ひがあつて、お引き受けするのは当然なれど、さて、何を書くべきか? 作品集と言つても、座談会記事の再録あり、本人(安岡)の著書の「あとがき」あり、所謂エッセイも含まれてゐて、何処に焦点をあてればよいか決めかねるのだが、此の本の中核を成すのは、多分「吉行淳之介の事」と題して吉行全集の月報に安岡が十五年前連載した約百枚の評伝になるだらう。吉行と安岡、双方とも作家、それならやはり、作家にとつて最も大切な創作用の基礎素材、文章を語るのがものごとの順序のやうに思へる。ついては、文章に関する常識論一般論になるけれど、一つのセンテンスの中で同じ言葉が二度三度、繰返し使はれてゐるのを私は看過し得ない。ごく簡単な例文を挙げるとすれば、
「けさから何も食べてゐないもんだから、仕事をする気力が無くて……」
 右、最初の「から」は、英語の from に該当する日本語、二つ目は because(又はsince、as)にあたる日本語、語意はちがふが、言葉としては全く同じ言葉である。自分の文章がこんなかたちになるのを「カラカラ書き」と称して私は極力避けてゐるのだが、実は書くのがいやなだけでなく、読むのもいやだ。若い文筆家たちが、何のこだはりも感じないかの如く平気で「カラ、カラ」をやつてゐるのを見かけると、読むのはそこで打ち切り、掲載誌は書斎の外へ抛り出したくなる。
 文脈上の初歩的些末事に神経質になり過ぎてゐると批判されるかも知れないが、安岡は此の些事をどう取り扱つてゐただらう? 「文士の友情」のサブタイトルは、連載評伝の題に二字加へて「吉行淳之介の事など」に決つたさうだから、こちらもそれに倣つて「安岡章太郎の事など」あれやこれや、もう少し掘り下げてみたくなり、自分の好きな短篇「悪い仲間」「質屋の女房」「家族団欒図」三作を対象に、「カラカラ書き」の有りや無しやを逐条審議して、結局それは一箇所も「無し」であつた。偶然の事象とは思へない。案の定といふ気がする。from の「から」と because の「から」との混用、重複使用など彼も亦容認出来ない性(たち)で、文章の組立て方には十二分の心くばりをしてゐたにちがひない。
 最晩年、安岡の老い込みぶりはかなり深刻だつたと聞いてゐるけれど、それ以前、日附を記した古いメモによれば少くとも平成十六年(二〇〇四年)夏までの彼は、頭脳もしつかりしてゐたし、自分の文章に愛着と自信とを持つてをり、さまざまな評論随筆を生み出してゐる。それの積みかさねが、作者世を去つたあと「文士の友情」と題する単行本にまとまるわけだが、担当の編集者は「鮨そのほか」の担当者と同一人物、楠瀬啓之氏。此の人のねらひは、元陸軍二等兵安岡章太郎の苦が味に満ちた半生を、従来あまり世に知られてゐなかつた別の一面と共に、文章を通じて読者に広く伝へたいといふところに在つたかと推測する。私の新刊紹介のお役目はこれで終りだが、皆さん、本が出たと聞いたら、ともかく一冊手に取つて、任意の頁を開いてごらんなさい。楠瀬さんが本造りの為に選び出した二十篇の、時に飄逸軽妙、時に晦渋難解な文章、選んだ人が人だけに、読み進むにつれて予期せぬ輝きを帯び始め、皆さんに意想外な読書の楽しさをたつぷり味はせてくれるのではなからうか。
 病み衰へながら九十二歳の天寿を全うした旧友安岡に、あらためて哀悼の辞を呈し、天国での冥福を祈る。

 (あがわ・ひろゆき 作家)

安岡章太郎『文士の友情 吉行淳之介の事など』978-4-10-321911-8