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書評・エッセイ

わからないことがわかった

――清水義範『考えすぎた人 お笑い哲学者列伝』

清水義範

 いっそ、なんにも知らないならそれはそれですっきりしているのである。哲学書など一冊も読んだことがないなら、恥ずかしながら知りません、と言えばいいのだから。
 ところが、私が大学生だった四十五年ばかり昔には、大学生ともあろう者が、哲学をまったく知らないのでは格好がつかなかったのである。デカルトがさあ、とか、カントがね、とか、ヘーゲルだけども、などと偉そうに口走ってこそ大学生だ、という風潮があり、私もほんの少しはそれに触れたのだ。プラトンによるソクラテスの対話編もいくつかかじった。私はソクラテスの相手をイライラさせるくどい話し方を面白がった。
 それからデカルトや、ルソーや、パスカルなんかも読んだ。そして図々しくも、他人にその内容を教えたりしていた。
 正直なところ、カントは読もうとしたが読めなかった。こんなにむずかしい本がこの世にあるのかとびっくりした。
 ヘーゲルは、原典にあたることなく、解説書を読んで、弁証法の考え方だけを知った。しかし、正しく理解しているかどうか自信がない。マルクスも、「資本論」は読まずに、解説書ばかり読んで、だいたい何を言った人なのかわかった、なんて思っていた。
 ニーチェは「ツァラトゥストラかく語りき」を読んで、この人の言ってることはわかる、と思っていた。どれだけわかっているのか怪しいものなのだが。
 ハイデッガーは何も読んでない。だから何も言えない。サルトルは、小説をいくつか読んで、実存主義をぼやーっと理解した。
 というように、私と哲学の関わりは、なんだか危っかしいのである。まったく知らないわけではないのだが、きちんと知っていることはものすごく少ないのだ。カントよりあとの哲学は、ためしにチラリとのぞき見ては、まるで歯が立たずに蹴散らされている。
 そんな私に対して、新潮社のKさんが、哲学者列伝を書きませんか、と提案したのだ。そう言われて私は、そんな無茶な、と逃げだしたい気分になったのも事実だが、心の中の半分は、面白そうだな、と思ったのである。こう考えたのだ。
 私にそれを書けと言うのは、まっとうな解説書、哲学入門書を書けという意味ではなく、ユーモアのあるパロディをやれということであろう。それならば、できるかもしれないなと、つい思ってしまったのだ。
 たとえば私には、「世界文学全集」という短編集がある。あれを書き始めた時私は、ホメーロスの「オデュッセイア」を読んでいなかった。読んでないのにそのシリーズを始めて、あわてて「オデュッセイア」を斜め読みして、バカな話をこしらえた。
 中東戦争になった時、日本の商社マンの織田誠也が、ポセイドーンならぬフセイドーンの怒りをかって、日本へ帰るのに大変苦労した、という話を書いて、「オデュッセイア」という短編小説にした。それで、これはあきれたパロディですから、という顔をして逃げきった。
 ああいうふうになら、哲学者列伝も書けるかもしれない、と考えたのだ。アリストテレスはほとんど読んでないが、ソクラテスとプラトンは少し知ってるような気がする。だからバカな冗談をやればいいわけだ。
 ルソーはかなり奇人であり、カントはあきれるほど几帳面だという変人である。そういうことをカリカチュアしていけば、ユーモア小説になるだろう。
 そんな気がして、Kさんに、書きます、と答えた。
 そしてひとつだけ、無謀なことを考えてしまった。笑えればいいユーモア小説にするのだが、その哲学者の思想も、一ミリぐらいはわかるように書けたらいいな、と。バカ話ではありながらも、たとえばニーチェとかマルクスについても、少しはわかる、という話にしていこう、と考えたのだ。
 そんなことを思ったせいで大苦労をした。前半はともかく、後半の哲学者について、ちょっとでもわかるように書くなんてものすごい無茶だった。ハイデッガーやウィトゲンシュタインなんて、解説書をいくら読んでもなんにもわからないのに、どうわからせられるというのか。でも私は現代哲学について考えに考えた。そして考えすぎた私には、現代哲学はわからん、ということがくっきりとわかったのである。知らないままでいるよりは上達だと思っている。

 (しみず・よしのり 作家)

清水義範『考えすぎた人 お笑い哲学者列伝』978-4-10-391503-4