インタビュー

2013年6月号掲載

『いつも彼らはどこかに』刊行記念インタビュー

動物たちがいる世界の喜び

聞き手:佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

小川洋子

たてがみはたっぷりとして瑞々しく、温かい――人の孤独を包み込むかのような気高い動物たちの美しさ、優しさを、新鮮な物語に描く連作小説集。

対象書籍名:『いつも彼らはどこかに』
対象著者:小川洋子
対象書籍ISBN:978-4-10-121527-3

 ――『いつも彼らはどこかに』には動物の名前を含んだタイトルの短編が八つ収められています。雑誌「新潮」の連載ですが、書き始めるときの構想はどういうものだったのでしょう。

小川 きちんとした構想というほどのものはなく、久しぶりに長編(『ことり』)を書き下ろした後だったので、短編が書きたくなったんですね。短編が続くと長編が、長編を書くと次は短編が書きたくなります。動物が毎回出てくる話にしようということだけ書く前に決めていました。まだなにも書いてない段階で連載のタイトルをつけなくてはいけなくて、ふっと「いつも彼らはどこかに」という言葉が湧き出てきたんです。自分がつけたタイトルなのに、その言葉が持っている力と、動物たちが持っている力に助けられて書けた気がします。

 ――なぜ動物が出てくる話にしようと思ったんですか。

小川 これまであまり意識してこなかったのですが、デビューして二十年くらいたってふりかえったとき、自分の小説で、動物が重要な役割をはたしていることに気づいたんです。たとえば『やさしい訴え』で言えば、無口な登場人物ばかりの閉ざされた関係の中で、主人公の飼っている犬が一匹入ってくるだけで空気が動く。でも最初から人と人との関係を開放しようと思ってそうしたのではなく、取材に行った先にたまたま犬がいたので書いただけだったんです。私の意図しないところで、物語のために犬が力を貸してくれた。小説を書き続けてゆく中で、こんなふうに少しずつ動物が持つ意味を自覚するようになりました。今回は、言葉を発しないものの存在が言葉の世界にとっていかに大事かを、意識的に確認してみようと思いました。

 ――馬、ビーバー、チーターなどさまざまな動物が描かれていますが、意識せずに書いていたときと今回のように意識して書いてみた場合と、動物への思いは変わりましたか。

小川 それが、まさに「いつも彼らはどこかに」いる、ということなのでしょうが、意識しようが意識しまいが、彼らの役割に変わりはありませんでした。私のほうの事情はまるでおかまいなしに、彼らは彼らの場所にいましたね。

 ――「彼ら」は、動物たちのことでもあるし、小説に登場する、自分の場所にいて黙々と自分の仕事をしている人々のことのようにも読めます。

小川 タイトルの「彼ら」には、人間も動物も、境界なく同じ地平にいるという感じがありますね。冒頭の「帯同馬」では、スーパーで食品のデモンストレーション販売をしている女性は、新聞記事で知った一頭の競走馬と、言葉じゃないもので対等に会話しているといってもいいと思います。

 ――「帯同馬」に出てくる馬は小川さんの創作かと思ったら、ディープインパクトが凱旋門賞に出走するとき一緒に遠征したピカレスクコートという名前の馬が、ほんとうにいるんですね。

小川 そうなんです。小説を書いていていつも思うんですけれど、小説家がいくら知恵をしぼって空想の世界、ありえない世界を描こうとしても、現実のほうが更に人間の想像力を超えていくんですよね。

 ――フィクションの核となるような小説的現実はどうやって見つけるんでしょう。

小川 それはもう、偶然としか言いようがありません。突発的な出会いでも、意識して取材に行った場合でも、想像もしなかった小説的な現実が待っているんです。余計な空想を付け加える必要もない、ありのままを書けば物語になるような偶然の出会いが必ずある。自分が生きている世界はなんて書くべきものにあふれてるんだろう、と思う瞬間がいちばん幸福を感じます。

 ――偶然は探しに行って必ず見つけられるようなものではありません。今回の小説は、偶然をストックしてから書き始められたのでしょうか。

小川 ストックといえるほど整理整頓されたものはありませんでした。八編の中には、かなり前に出会った事柄がもとになっているものもありますし、締切ぎりぎりになってふっと出会いがやってきたものもある。タイトルの「彼ら」は「偶然」と置き換えられると思います。いつも偶然はどこかにあるのに、人間のほうの都合でつかみそこねたり、気づかなかったりしているんです。

 ――小川さんでもつかまえられないことがありますか。

小川 書きすぎるとキャッチできません(笑)。ぼんやりする時間も必要ですね。小説を書いていて行き詰まったときは気分転換をしてもだめで、考えて考えて考えつめてくたびれはてて考えられなくなって、頭がからっぽになったときに書くべきことがやってきます。

 ――前半に置かれた作品は現実世界と地続きのリアリズムの手法で描かれ、徐々に非現実的で幻想的な世界へと誘われていく構成になっています。

小川 全体のバランスを考えることはほとんどしていないんです。最初に、ああこれは小説に書きたいと思わせてくれる帯同馬や蝸牛やビーバーに出会ったあとは、それ自身が行きたがっている方向を感じ取って従うだけです。同じような書き方が続くと、ちょっと違う雰囲気で書きたくなりますが、作家の都合を「彼ら」に押し付けるのは危険です。

 ――八編の物語のすべてに何らかの偶然の出会いが含まれているとして、作家を主人公にした「ビーバーの小枝」のように、核となる出会いがある程度想像できるものもありますが、「ハモニカ兎」や「断食蝸牛」などまったく想像がつかない作品もあります。

小川 「ハモニカ兎」の場合は、よくニュースなどで見る「○○まであと何日」と、一つずつ減っていく掲示板、あれって間違えていたら大変なことだなといつも思っていたんです(笑)。「断食蝸牛」は、小説に書いたようなカタツムリの病気があると知ったこと。寄生虫にやられたカタツムリの触角がレインボーに輝いてうねる映像をユーチューブで発見したところから始まっています。本当にごく小さな偶然です。ユーチューブの中で蠢くカタツムリを風車小屋へ持って行くのが物語をつくるということなのかもしれませんが、書き終わってみれば最初から彼らはそこにいたような気もします。

 ――やっぱり予想もつかない答えでした。小川さんは、小さいころから動物へのシンパシーを持っていたんですか。

小川 チェスや数学やチェンバロなどいろいろな題材を選んできましたが、自分がチェスをしたりチェンバロを弾いたりという趣味はないんです。動物もそうで、小さいころ熱帯魚を飼ったり小鳥を飼ったりしていたのも、昭和の子供はみんなそうしていたというだけですし。ただ、「野生の王国」というテレビのドキュメンタリー番組や図鑑を見るのは好きでしたね。ちょっと離れたところからじっとそれを見ているというのが自分にとっては有意義な時間で、それですごく満足するんです。

 ――食品の販売員を書くときはスーパーに行ってじっと観察したり? 現実世界を描いても、寓話の中の人物やできごとのように感じられるのはだからかもしれません。

小川 仕事の現場って面白いですよね。その職場だけに通用する規律や独特のルールがあって。私生活では積極的に人と会うほうではありませんが、仕事で人の話を伺うのはぜんぜん苦にならないです。私にとって、自分が生きているこの世界を知る方法が小説で、小説を読んだり書いたりすることを通して、この世界を旅しているんだなあと思います。

 ――小川さん自身の、仕事のルールや決まった手順はありますか。

小川 出会いの段階では、これは小説になるなという予感があるだけ。そのあとは、子供が粘土をこねているようなものです。最初は何だかわからないけれど、こねているうちにウサギっぽくなったからウサギにしよう、とかカタツムリにしよう、とかそういうのに似ているかもしれません。出会った素材を自分の掌で温めているうちに、徐々にかたちが見えてきます。全部のかたちがはっきり決まってから一行目を書くのではなく、まだぼんやりしているところで書き始めたほうが不思議にもうまくいきます。

 ――初めの「帯同馬」から、旅の終わりに思いがけない出会いが待ち受ける最後の「竜の子幼稚園」まで、全体を通して他者への穏やかな信頼が感じられます。

小川 どんなに自分は孤独だと叫んでも、人間は本当に孤独にはなりきれません。競馬場にいる一頭の馬と心のどこかでつながっていたりする。言葉では成立しない何かによって、世の中のいろいろなものと実はつながっていると、ふときづく瞬間があって、そこに含まれているのは喜びなんですね。たとえほかの人とは共有できなくても、喜びと名付けていい瞬間なのではないでしょうか。

 (おがわ・ようこ 作家)

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