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書評・エッセイ

宙ぶらりんの不安

――ドン・デリーロ『天使エスメラルダ 9つの物語』

池澤夏樹

 百年前に比べたら世界はずっと均一に近くなっている。東京に暮らす者とニューヨークで生きる者の日々はさほど変わらない。違いを見つけることもできるが、共通するものの方がずっと多いだろう。
 ドン・デリーロのこの短篇集を読んで、特に意識する間もなく主人公に自分を重ね、これは我が身に起こったことだと何度となく思った。場所も状況も感情もさまざまなのに、どれもがいつか体験したことのように思われる。つまり主人公たちはぼくにとって普遍の人格なのだ。
 最初の話、「天地創造」の場合は自分との重ね合わせの理由は明らかだ。南の小さな島に行って何日か過ごす。帰る日が来たのに迎えの便がない。ぼく自身そういう目にあったことが何度かあった。トリニダードやトバゴの近くではなくミクロネシアだったが、ともかくそこに行って数日を過ごして帰りの便に乗ろうとすると「テクニカルな理由で」その日の便はキャンセルになったと空港のカウンターで告げられる。あるいは「予約の再確認」をしておいたから、ホテルに電話がかかってきてそう告げられる。「予約の再確認(リコンファーメイション)」、システムが変わって使われなくなった懐かしい言葉だ。
 ぼくの場合は深刻ではなかった。二人の旅から一人ずつ別れて帰ったことはなかった。次のフライトは三日先と言われて、その日まではホテル代は航空会社持ち、ミール・クーポン(食事券)も提供されるというし、必死で帰るべき理由もなかった。
 この話、なぜ「天地創造」というタイトルなのだろう? 別天地に男と女が二人だけでいる。日常のビジネス社会から切り離されてしまったおかげで、人間の原初の光景が見えてくる。アダムは初めてイヴに出会ったとき、「やあ」と言わなかっただろうか。その後で寝床に誘ったのではなかったか。この語り手とクリスタの出会いにはどこかそういうおずおずとしたところがある。彼らが居る場所は陽光燦々たる天国であると同時に出るに出られない地獄でもある。二人はその二つの間で宙に浮いている。
 この話の場合、自分が知っていることだと思ったのは南の島の話だったからかもしれない。だけど、他の話にもすべて同じような共有感がついてまわるのだ。昔々、ぼくはアテネに住んでいたし、他の地ではあるが地震の体験もたくさんある。博物館でミノア文明の遺物も見ている。だから「象牙のアクロバット」は入りやすい。だが、この話の状況に入りやすいことと、この話が語るとりとめもない不安を共有することは違う。そこにドン・デリーロのマジックがある。
「バーダー=マインホフ」も同じ。獄中の永田洋子を描いた絵があるとして、美術館でその絵の前に立って悲傷について考えている自分を想像する。この話に登場する二人は共に宙ぶらりんの状態にある。この出会いからもう一歩踏み出すことも背を向けることもできない。だから彼女は翌日、彼がまた来ていることを予想/期待して美術館に行く。ぼくでもそうするだろうと思う。絵の意味と出会いの意味を求めて。長篇ならばこの先の展開を追うことになるはずだが、ここで終わるのが短篇の手法。
 本のタイトルになった「天使エスメラルダ」だけが例外的に不安や宙ぶらりんと無縁に見える。この話の主人公シスター・エドガーは信仰に裏打ちされた確信をもって生きている。だから読者であるぼくは自分を彼女に重ねることができない。カトリック的な、まるでブロンクスではなくメキシコで起こるような一つの奇蹟に立ち会った目撃者の一人として、ぼくは彼女と死んだ少女が形作る円環を感動して見守る。悲惨な話ではあるが、ここには何か旧世界風の安心感がある。そもそもこの少女の名は美しすぎるわけだし。
 こういう話をもっと読みたいと思うのは我が心の弱さか。

 (いけざわ・なつき 作家)

ドン・デリーロ著/柴田元幸・上岡伸雄・都甲幸治・高吉一郎訳『天使エスメラルダ 9つの物語』978-4-10-541806-9