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書評・エッセイ

不思議なご縁

――阿川弘之『鮨 そのほか』

安岡治子

 阿川弘之氏の新著が刊行される。九十二歳の大作家の著書について、なぜ私のごとき日本文学もろくに読んでいない者が、こうした文章を書かせて頂くことになったかと言えば、ご著書のあとがきで書かれているように、この本の刊行の準備が始まったちょうど同じ頃、父、安岡章太郎が亡くなったという奇遇による。
「あとがき」にもあるように、阿川氏と父は同じ大正九年生まれの申年のせいか、犬猿の仲とは言わないまでも、あまり反(そ)りが合わなかったように私は思っていた。もう五十年ほど前になるが、その頃はお互いの家族も交えて仲が良く、尚之さんや佐和子ちゃんもお誘いして、皆で母の実家の葉山に泊りがけで泳ぎに行ったこともあり、父は阿川さんのおじ様とご一緒に軽井沢の山の上に小さな土地を買った。ところがすぐに喧嘩をしてしまい、阿川さんは別荘を建てられたのだが、父は結局お隣の土地をそのまま数十年も放っておくことになった。子供同士はその後も仲が良く、私は数年前に佐和子ちゃんに父の土地を買って頂いた。軽井沢の山荘は、今では作家としての佐和子ちゃんの仕事場になっているようだ。
 今回の著書の中の「座談会 わが友吉行淳之介」を拝読すると、阿川さんは吉行さんとも、ののしり合いの連続で、「何度も絶交しようと思った」とある。それに対して庄野潤三さんが「そんなにののしるということは、吉行はどこかで阿川を好きだったんじゃないか」と発言しておられ、私は、父と阿川さんの関係も同様のものだったのではないかと想像し、少しは安堵した。この吉行さん追悼の座談会に父が出席していないのは、ちょうどその頃、二度目の胆石の手術で入院中だったからだ。胆石持ちは怒りっぽいという説もあるので、父が御迷惑を多々おかけしたこともお赦しいただきたい。
 さてこの新著は、いずれも上質の三作の短編、書評・随筆が二十篇あまり、それに座談会から成る立派な作品集である。九十二歳の現役作家が、これだけの作品集を出版したのは、真に稀有な例と言えよう。
 わけても表題作「鮨」には、格別の味わいがある。地方の講演会に出席した「彼」は、駅まで見送りに来た主催者から鮨折りを渡されるのだが、この鮨折りを持て余すところから物語は始まる。上野に着いたら会食の予定があるのに、つい一口だけつまんでしまった鮨折りを如何にすべきか――。「彼」は三時間余り車中でとつおいつ考え続け、ほとんど悶々として悩むその姿は笑いを誘う。そうして想いついた案は、上野駅の浮浪者に進呈しよう、というものだった。「彼」はかねてより、浮浪者に親愛、羨望の念に近い気持ちの混じった興味を抱いていた。「一切を捨ててしまうことによって、絶対の自由を得ている」と言われる上野の浮浪者たちが、不自由人たる自分の差し出す鮨折りにいかなる反応を示すか――。「彼」はまたしても想像を逞しくして思い悩む。読者は思わず惹き込まれ、「彼」と共にどきどきさせられるが、物語は意外な結末を迎える。
 同じ鮨がらみというだけでなく、この短編を読めば、誰しも「小僧の神様」を思い浮かべるのではないか。著者自身がそれを意識して書かれたかどうかはわからないし、プロットが似ているわけではない。けれども登場人物の構図といい、主人公の発想法といい、何より、短編小説のお手本のような鮮やかな展開、意想外の結末、抜群の描写力、何処を取っても、「鮨」は志賀直哉の名作を彷彿させるように私には思われた――などと偉そうなことを書くと、阿川さんにも父にも叱られそうな気がするのだが……。
 それにしてもこの本に登場する「第三の新人」は、阿川さんと三浦朱門さん以外は全て亡くなっており、今度は安岡までが死んだと聞いて、「予想以上の強いショックを受けた」と阿川さんが書かれたのは、その通りなのだろう。「あとがき」で、ご自分の新著刊行と父の訃報が重なったことに触れて、「人と人との縁の不思議さを感ずる」としみじみと書いてくださったことに、私も母も心から感謝している。
 さらに不思議なのは、最近我が家でみつかった、父が多分最後に書きかけていた原稿用紙である。原稿用紙の半分ほどに鉛筆で書いていたのは、「昭和十八年、海軍通信学校にかよってゐた頃の阿川弘之、つまりシナ事変中の阿川の風姿が最もありありと映ったものといえやう」で始まる文で、当時グータラな二等兵だった自分と比較して「同時期に阿川は海軍の通信学校で、おそらく士官なみのあつかひをうけてゐたのだから、二等兵とは、天と地のひらきがあったわけだ」で終わっている。
 父がいつ、何のために書いた文なのか、今となっては知る由もないが、最晩年に書いた原稿が阿川さんについてのものだったこと、これは真に不思議なご縁と言わざるを得ない。

 (やすおか・はるこ 東京大学大学院教授)

阿川弘之『鮨 そのほか』978-4-10-300418-9