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書評・エッセイ

芽吹き

――小池昌代編著『おめでとう』

小池昌代

 自分の誕生日すら忘れてしまうわたしは、正月以外、久しく、人から「おめでとう」と言われることもなく生きている。至極地味な毎日。めでたいことなんか、なんにもありゃしない。小学生のころ、「誕生会」なんかをやると、友達が何人も来てくれたが、主役のわたしはぼーっとしていた。祝われる本人というのは、いかなるときも空虚なものだ。だいたい、生まれただけでなぜ祝われなければならないのか。そんなことがなぜ、人間の「慣習」となっているのか。考え始めると、今もよくわからない。人がこの世に生まれでたことにはある忌まわしさがあって、お祓いのために、この言葉、「おめでとう」を交わし合うのではないかとすら思えてくる。
 ところでわたしには、ああ、あれは確かに祝福がやってきた瞬間だったのだと、今も思い返す出来事がある。そのとき、わたしは貧相なアパートの六畳間に暮らしていた。これから眠ろうとして目を閉じたとき、天啓のように降りて来たものがあり、あっ、わたしは今、幸せだと思った。おかしなことに、それを証明する根拠は何一つなかった。ただ、わたしは自由だった。わたしはわたし自身だった。そんなことを思ったのはそのときだけで、その後、そのような純粋な形では、わたしに祝福らしい祝福はやってきていない。
 とはいえ、すばらしい夕焼けを見たときなど、それを祝福と考えることがあるし、ふと見た電子時計が、11時11分だったり、4時44分だったりすると(こんなつまらないことが、けっこうしばしばある!)、よいことの前触れに違いないと考えたりする。つまりわたしは「おめでたい人」だ。ひどい中傷を受けたり、失恋したりといった苦しみも、距離を持って眺め直したとき、あれもまた祝福の変形だったのだと思い直すこともある。人間の内部の古い組織が崩壊し、自己が新しく組み替えられること――それこそが真の祝福であり、幸不幸は表面に見えているだけのものにすぎない。
 人の不幸は蜜の味。自分が苦しい境遇にあるとき、人の幸福に関心など持てず、ましてや喜べないというのも至極当然のことだ。けれど同時に、人間には誰かを祝いたい、というより、「おめでとう」という言葉を口にしたいという不思議な欲望があるんじゃないか――と、このあいだ偶々、友だちに「おめでとう」と言う機会があって、わたしは思った。わたしは意地悪く、自分の心を観察したが、自分が「おめでとう」と言えた瞬間には、かすかだが確かな歓喜があった。あれ? と思った。わたしってそんないい人だったかしらね? なぜ、わたしたちは、自分以外の他者を祝えるのだろう。
 誰かを祝う、その誰かには、もしかしたら、自分自身も入っているのではないか。ここが言葉の不思議な恩寵なのだが、「おめでとう」には、この言葉をはいた人こそを照らし返す、強い光が感じられる。ことほぐという行為の根本にあるのは、「我、発見せり」というあれ、あの思いなのではないだろうか。めったにないという意味でも、祝福は一種の奇跡だ。あなたの身の上におこったそれを、今、わたしは発見した、それを共に祝おうというのが「おめでとう」。とすれば、真にめでたいのは、祝われる人よりも、もしかしたら、そこに「祝福」を見た人のほうかもしれないのだ。
 震災から二年を経た今年の春は、去年より一層、忌まわしいニュースに満ち、わたしも年々酷くなるばかりのアレルギーに苦んでいる。それでもわたしの内には、何者かに向かって「おめでとう」と言いたい気分が、この頃ぷつぷつと芽吹き始めているのを感じる。何だろう、このきもちのうごきは。今回、『おめでとう』というアンソロジー詩集を編集し、つくづく思ったことがある。祝福には様々な形があること。たとえそこにどんな苦しみや絶望が書かれていたとしても、希望がなければ人間は、詩を読んだりしないし書いたりすることもない。

 (こいけ・まさよ 詩人)

小池昌代編著『おめでとう』978-4-10-450903-4