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書評・エッセイ

女性文学者たちに感謝と祈りを

――田辺聖子『続 田辺聖子の古典まんだら 一葉、晶子、芙美子』

小川洋子

 田辺聖子さんの優しく穏やかなお声が、一行一行から聞こえてくるような本である。大阪で行われた講演会を元に作られた一冊、ということも関係しているのだろうが、何よりここに登場する女性文学者たち(樋口一葉、与謝野晶子、杉田久女、吉屋信子、林芙美子)に対する田辺さんの敬愛の情が、真っ直ぐに伝わってきて、実に心地よい。
 現代とは比べようもなく女性の立場がか弱かった時代、明治生まれの彼女たちがどうやって文学の道を切り開いていったか、田辺さんは慈しむように丹念にたどってゆく。彼女たちを打ちのめしたのは、作品を生み出す苦しみではなく、生活にまつわるもろもろの困難だった。一葉と芙美子は貧しさにあえぎ、信子は母親から男尊女卑の価値観を押し付けられ、晶子と久女は夫との関係に悩まされた。家族を養う商売のため、あるいは子供への愛情のため、筆を折る決心をする局面にも陥った。しかし彼女たちは誰一人あきらめなかった。結局皆、そこから這い上がり、創作の道に戻ってきた。
 そうさせたのは負けん気なのか、執念深さなのか。もちろん精神的な強さがあってこそなのだろうが、もっと決定的に彼女たちを支えたのは、やはり才能なのだと思う。一家庭人に納まろうとする気持を許さない激しい才能が、本人さえもコントロールできないままに体の奥底から沸き上がり、彼女たちを文学の道へと導いた。そしてそれは例外なく、選択肢の中で最も困難な道だった。残された数々の作品の素晴らしさが、そのことを証明している。
 一筋縄ではいかない彼女たちであるから、当然誤解をされたり非難を浴びたりすることも多かった。けれど田辺さんは時に公平な目で冷静に誤解を解きほぐし、時に欠点を魅力に転換する寛容さを見せている。いわゆる意地悪な気配が一切ない。そこが心地のよさを感じさせる一番の理由だろう。例えば、虚子に対する異様なほどの久女の執着に関して、狂気の一言で片付けてしまわず、自分を分かってほしいとすがる女性の孤独を汲み取っている。あるいは芙美子の従軍記について、戦争賛歌や軍国主義賛歌ではない、男賛歌なのだと解釈している。
 欠点をあげつらうのではなく、それをかばい、別の角度から光を当てて隠された魅力を見出すという田辺さんの姿勢は、最初から最後まで揺るぎがない。その根底にあるのはやはり、同じ文学者としての、作品に対する尊敬の念であろう。芙美子の葬儀について平林たい子は、「何となく散漫で、古いお友達は一人も来ていなかった」と証言したが、それでも田辺さんは芙美子の人間性を否定することはしない。『浮雲』のような傑作を遺した彼女に対し、
“自分のなすべきことはなし遂げたのだと私は思います”
 という言葉を贈っている。与えられた才能によって、書くべき作品を書いた。作家にとってこれほど光栄な言葉はないだろう。
 私が最も印象深かったのは、文学の師匠、半井桃水との関係に悩みながらも、ようやく新人作家として認められだした一葉が、夜遅くまで必死に執筆する場面だった。一葉の体を心配して妹の邦子が声を掛ける。
〈……斯くまでに脳をつかひ心を労して煩ひ給はゞ何とかすべき、見る目もいと苦るしきに何卒これは断りてもはや今宵は休み給へとくり返しいさむ……〉
 貧困の中、体を痛めつけるようにして小説に向かう一葉の後姿が、浮かび上がって見えてくる気がする。どうして書くのか自分でも説明できず、ただ書かずにはいられない気持に突き動かされ、命が削られるのも構わず没頭している。そんな女性文学者たちを田辺さんは、労わりと感謝の心で見つめている。だからこそ読み終わった時私も、自然と彼女たちに祈りを捧げたい気持になっている。

 (おがわ・ようこ 作家)

田辺聖子『続 田辺聖子の古典まんだら 一葉、晶子、芙美子』978-4-10-313431-2