書評

2012年12月号掲載

「サファイアの手法」の汎用性

伊奈久喜『外交プロに学ぶ 修羅場の交渉術』

伊奈久喜

対象書籍名:『外交プロに学ぶ 修羅場の交渉術』
対象著者:伊奈久喜
対象書籍ISBN:978-4-10-610494-7

 二〇〇九年に亡くなった米国のコラムニスト、ウィリアム・サファイアは、ニクソン大統領のスピーチライターを務めた保守派でありながら、リベラルなニューヨークタイムズ紙に三十年間、コラムを書き続けた。これを可能としたのは、ニューヨークタイムズ社の雅量に加え、彼のコラムがユニークで良質だったからである。
 サファイアは言葉を大事にした記者であり、ニューヨークタイムズ・マガジンに書き続けたコラムのテーマも「On Language(言葉について)」だった。そしてオックスフォード出版から「Safire’s Political Dictionary(サファイアの政治辞書)」という、八百六十二ページもある辞書まで出版した。
 辞書に立ち戻って言葉を正しく使えば、説得力のある主張に近づける。ステレオタイプ化、マンネリ化した表現が言論空間を支配していれば、そうでない記事はユニークに映り、説得力を持ちうる。彼のコラムはそれを教えてくれた。
 この手法には汎用性がある。言葉で目の前の相手を説得するのは、すべてのビジネスパーソンの日常活動そのものである。
 それを交渉と呼ぶとすれば、その国の利益を背負った古今東西の外交官たちこそ、その道のプロと言える。彼らの使う言葉やテクニックを紹介し、それをサファイアの手法などで解説すれば、実用性のあるビジネスパーソン向けの書になるのではないか。そう考えながら、頭を整理し、指を動かした結果が小さな本になり、刊行の運びとなった。
 本書の執筆は、私の生業であるジャーナリズムについても再考するきっかけとなった。
「ジャーナリズムの反対語はマンネリズム」といったのは大宅壮一である。米国のジャーナリスト、ウォルター・リップマンも、「人はステレオタイプで物を見た方が楽だ」と説いた。
 偉大なふたりのジャーナリストが警告したように、ジャーナリズムには絶えずマンネリ化の危険がある。固定観念を破壊するのが本来のジャーナリズムなのに、なぜなのか。
 マンネリズムは座りがいいからだ。テレビの「水戸黄門」が四十年以上続いたのも、偉大なるマンネリズムが視聴者の安心と支持を得たからだった。
 が、それも終わった。娯楽番組ですら、常に自己革新を意識していかなければ、見捨てられる。
 そして、現在のジャーナリズムもマンネリズムに陥っている。「いまこそ首相の指導力が問われている」式の座りのいい言論がはびこり、独り善がりに陥り、説得力のない主張をしている。
 マンネリという、ジャーナリズムに内在するジレンマから抜けだし、ユニークだが説得力ある言論を展開するには何が要るか。
 正確で豊富な情報を前提にするのは当然だが、言葉を大事にし、辞書を引きながら書く。そんな作業が重要だ。
 ビジネスマンもジャーナリストも、説得力、言語力が物を言う。本書がその一助となればと思う。

(いな・ひさよし 日本経済新聞特別編集委員)

最新の書評

ページの先頭へ