書評

2012年12月号掲載

彼女の時の時

――高山なおみ『今日もいち日、ぶじ日記』

佐藤寛子

対象書籍名:『今日もいち日、ぶじ日記』
対象著者:高山なおみ
対象書籍ISBN:978-4-10-126051-8

 グラビアアイドルをやっていた頃、イベントでファンの方に「佐藤さんが気に入ると思うから」と二冊渡されたのが、高山さんの本との出会いだった。一冊は料理の本で、もう一冊は『日々ごはん』の第一巻。
 まず料理の本を覗いてみると、文章もデザインも写真も空気感も、世に出回る他の料理本と似て非なる匂いがぷんぷんした。健康とか栄養とかカロリーとかを気にしているふうがまるでないのだ(本当はそんなこともないのだろうけれど、少なくともそれらが前面に出ていない)。高山さんの本を読んでいると、インスタントラーメンもおいしそうによく食べている。わたしは二日酔いの昼など、ずいぶん高山さんのレシピによる即席麺で救われてきた。ふふふ、無理をしなくていいのよ、と彼女のラーメンは囁いてくる。
 高山さんが――高山さんの料理が――、教えてくれようとしているのは、心の栄養の摂り方なのだと思う。わたしの「食べる」と高山さんの「食べる」が近い気がして、彼女の本を追いかけて読むようになった。
『帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。』というエッセイ集がある。この本は何度読み返したかわからないけれど、高山さんが自分の若い頃を回想する文章も多く、当時の彼氏のことが出てきたり、悩みやブレや地に足の着いていない感じを、素直に描いている。したいことをするにはどうすればいいかと煩悶し、状況を変えたいけれど変えることの怖さや面倒さを思っていたわたしは、同じようなジレンマを抱えていた若い高山さんの姿に共感した。
『帰って~』が出たのが二〇〇一年で、その後、〇二年からの日記と献立を記した『日々ごはん』が出始める。この本は六年間、全十二巻に及ぶ大河日記なのだが、ここでの高山さんは、暮らしの中での感性や心のゆらぎはあるとは言え、安定しているように見えた。明らかに、力強くなっている。その不動の声は、「ないものはなくていいのだ」と、わたしたちを常にやさしく慰撫してくれた。
 〇八年までで『日々ごはん』は終わったが、続いて「yom yom」誌で(この画期的な文芸雑誌をわたしは毎号読んでいた)、今度一冊に纏められる『今日もいち日、ぶじ日記』の連載が始まった時は大喜びした。これは『日々ごはん』の最後から一年飛んで、一〇年の日記。
 ところが、ここでの高山さんは再び震えているのだ。山村の古民家を買ってスイセイさん(夫)と少しずつリフォームしていきながら、漠然と今の足元と行く末を考える。大人の女性らしい安定したところは失っていないが、悩んだりブレたりしている。神経が無防備にそよいでいる。もちろん、悩みの内容自体は以前と変わっているわけだけれど。
 わたしは、日記って何だろうと考えた。人って、今日も明日も生きているのが当り前になっていて、死ぬことを忘れている。死ぬことばかり考えながら生きてはいけないからだ。ただ、日記をずっとつけていると、書き手の自分もいつか死ぬのだ、という認識にふと捕われることがあるのではないか? ここでの高山さんは、その認識を受け入れていこうとしているかのようだ。山の家を掃除する、冷蔵庫の残りで晩御飯を作る、孫(スイセイさんの元の家族のほうの)が生まれる、温泉に行っておばあちゃんたちの萎びた肉体に将来の自分を見る――そうやって、暮らしと人生の時間が濃密に絡み合っていく。この塩梅あるいは感覚が、『今日もいち日、ぶじ日記』の新鮮で、感動的なところだ。
 そして、こんなことを真正面から書きつけるところも高山さんの大きな魅力。
「決まりごと、お金、将来、夢のことなど。子供の頃にも若い頃にも、みんながこぞって、私に教えようとしたこと。『みんなと足並みをそろえ、世の中からはみ出さないようにしなさい』『もっと大きな声で、語尾までハキハキ自信を持って答えなさい』。/でも、本当にそうなの? みんな頭だけで、口の先っぽだけで言っているんじゃないの?/この世界は本当は、誰にもなんにも分からなくて、ゆらゆらしてて、あてどのないものなんじゃあないの?/だから私は、自分でみつけることにした。/迷うし、ぐちゃぐちゃだし、情けないし、しつっこいし、どこからどこまでが自分なのかも分からないけれど。目の前にあるものをしっかり見、隣にいる人のことをちゃんと感じ、空気の匂いを嗅ぐ。/そうやって、感受性をすり切れるまで使うことでしか、この世を確かめることなんてできないから」
 わたしは高山さんとスイセイさんの夫婦関係のありようにも憧れているのだが、もう紙幅がない。

 (さとう・ひろこ 女優)

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