TOP > 波 -E magazine Nami- > 対談

波

対談・鼎談

ダンシサイジキメイゲツノヨウナラクゴカガイタ談志歳時記―名月のような落語家がいた―

吉川潮

1,496円(税込)

この名人と同じ時代を生きられた幸せを、噛みしめればいいのだ――。

この名人と同じ時代を生きられた幸せを、噛みしめればいいのだ。わたしは十五歳の時、末広亭で彼の真打披露興行を見て、人生が決まってしまった。落語を芸術に高めた男・立川談志との五十年を描く慟哭のメモワール。談志はどれだけ落語に愛され、どれだけ落語を愛し、破壊し、創り直していったか。老いや病そして落語と格闘し続けた最後の五年間を間近で克明に記した日記を附す。

立川談志一周忌追善特集

立川談志というをのこ

――吉川潮『談志歳時記 名月のような落語家がいた』

吉川潮 × 立川談笑

吉川 談志師匠が亡くなって、早いもので一年経ちましたね(二〇一一年十一月二十一日没)。

談笑 命日に合わせて、われらが落語立川流顧問の吉川先生が『談志歳時記』を出されました。半世紀にわたって高座を追いかけてきた集大成のような談志論と、師匠の最後の五年間を間近で記した日記が収録されています。日記を読んでいると、当然だけど、だんだん師匠が弱っていく。やがて亡くなることもわかっているから読み終えるのが怖いような惜しいような、不思議な心持になりました。

吉川 あの日記は、師匠の言葉や表情を忘れないように、会った日、遅くとも次の日には書くようにしてました。

談笑 これは顧問の目から見た立川流の『古事記』ですよ(笑)。

吉川 談志師匠が稗田阿礼で、おれは太安万侶か(笑)。今日公園を散歩してたら、銀杏拾ってる人がいて、師匠を思い出したなあ。根津神社でよく拾ってたでしょう?

談笑 あれをビニール袋に一杯にして、ポシェットに入れて持ち歩くんです。そしたら袋が破れて、「糞の臭いがするぞ、誰だ?」って不機嫌な声を出した後、「あ、おれだ」(笑)。世代的なものもあるのか、只が好きな師匠でしたからね。宿泊したホテルのアメニティは全部持って帰っていました。シャワーキャップも持って帰ったんだけど、いい使い道がない。師匠は悔しくて何度も形状を眺めているうちに、丼物を温める時に最適じゃないかと思いついた。黄緑の水玉模様のキャップを丼に被せて電子レンジに入れたら、丼に水玉模様が付いて、いくら洗っても取れなくなった(笑)。

吉川 志の輔さんは「ホテルのトイレットペーパーを取ってこい。見つかったら、ここで使うか家で使うかの違いだけだって言え」とか「あるだけの爪楊枝取ってこい。何か言われたら、その場で使っちゃえ」とか命令されたらしいけど、談笑さんも何か取ってこさせられたことはある?

談笑 選挙事務所にある日本酒を洗いざらい取ってこい、と。しかも師匠が応援する方はだいたい落選するんですよ。落ちてしょんぼりしてるところへ行って取ってくるのは、かなり気まずい(笑)。

吉川 談志師匠が亡くなった直後、談吉君の二つ目昇進記念の会がありました。談吉は最後まで師匠の側について世話をした忠義者だけれど、その会で談笑さんが「片棒」(主人公のケチ兵衛は名だたる吝(しわ)い家。身代を誰に譲るか、三人の息子に自分の葬式をどうするか訊ねると――という噺)の主人公を談志師匠にして、長男を志らく、次男を談笑、三男を談吉で演じた(笑)。亡くなって間もないのに即興でやったから、よくウケてましたねえ。

談笑 あの頃は本当に高座で泣いちゃいそうでしたから、逆にああいう噺を拵えたんだと思います。十一月二十一日に亡くなって、発表が二十三日でした。私は静岡の独演会の中入りの時に、NHKの速報を見た柳家喬太郎さんからの電話で知ったんです。中入り後、師匠からしばらくの間、禁演を命じられていた「シャブ浜」を久々にかけました。高座から降りるとテレビ局の取材が来ていたので「頭の中は真っ白です」と答えて、静岡駅へタクシーで向かっていたら志の輔師匠から電話が入った。「カメラも来てるんだけど、一門での見解も出来てないし、答えられないよなあ」。もう答えちゃったとは言えなくなって(笑)。そしたらやはり静岡で落語会をやっていた談春兄さんと同じ新幹線になったんで、二人してその足で銀座の「美弥」(談志師匠行きつけのバー)へ行ったんです。

吉川 ああ、お通夜替りに、弟子たちで集まれる者だけは集まろう、となった会合ですね。盛り上がったんだって?(笑)

談笑 亡くなったのを知ったのが数時間前なのに、弟子一同で大爆笑してました。地下の店で、一階で新聞記者が張ってるんだから、もう少し小声で笑おうと言い合うくらい騒いでました。「おれは師匠のこんなエピソードを知ってる」っていう自慢大会ですよね。けれど、みんな師匠が亡くなったっていう実感は持てなかったと思います。

吉川 仏と対面してないからね。

談笑 ご遺族が一番大変でしたでしょうが、裏腹と言うか、亡くなってみて納得できるところもあると思うんです。だけど、私は未だに実感できないんです。よく高座で言うのは、独裁者が亡くなると、カダフィでも誰でも道端に放り出して、民衆が棒でつついたり蹴飛ばしたりして、もう何をしても平気だって確認するじゃないですか。「おれたちは自由だ!」って。あれを私たちはできてない(笑)。

吉川 また去年は独裁者がよく死んだよねえ(笑)。カダフィが死んだのが十月、金正日が十二月、独裁者じゃないけど師匠が贔屓にしてたビン・ラディンが五月。師匠が金正日を呼んだ気がする(笑)。

談笑 師匠が芸歴五十周年のパーティで、金正日の写真入りで下に「キムジョンイルマンセー」ってハングルで書いてあるTシャツを着ていました。あれ、僕がパソコンで作って差し上げたやつなんです。そしたらマスコミの囲み取材があったんだけど、どうにも映しづらい。機転のきくCXの人がいて、「師匠、それ今あまり流行っていませんよ」と耳打ちすると、「そうか」って脱いだ(笑)。

吉川 最後に会ったのは、声を失った談志師匠が筆談の紙に「オマンコ」って書いた、八月の「美弥」での集まりですか?

談笑 いや、師匠は十月末に意識不明になったんですが、その一週間くらい前に私は会えました。根津の地域寄席で独演会があった後、談志師匠と懇意の煎餅屋さんに「行ってみるだけ、行ってみようよ」って誘われてマンションに顔を出したんです。そしたらちょうど、たまたま一時間か二時間だけ、病院から戻ってきていた師匠がいた。もちろん声は出ないし、昔の映画雑誌を眺めてるだけで、表情もあまりありませんでした。弓子さん(師匠の長女)が「どう? パパ、もう病院に戻る?」って訊くと、私の目からは何の反応も窺えないのに、「……」「ああそう、もうちょっといようか」。うわあ、これはすごい関係だなあと。

吉川 八月に「美弥」へ弟子たちが集まった時には、かなり衰弱してたんだけど、「オマンコ」のおかげで雰囲気が明るくなったよね。

談笑 大爆笑しましたもんね。弓子さんだったかな、ご家族の方に「せっかくお弟子さんたちが集まっているんだから、何か言葉かけてあげて」って言われて、震える手で書いたのが「オマンコ」(笑)。みんな固唾を呑んでいたのに、倒れかけた(笑)。でも、同席されてた吉川先生がこの本で指摘されてるけれど、あの場で私たちもものすごく動揺していたんですよ。久しぶりに師匠の顔を見たら――。

吉川 噂では聞いていても、あんなに衰えているとは思っていなかったろうからね。でも、芸人って凄いなあと感心したのは、みんな延々と莫迦話しかしなかった。

談笑 しかし、いま振り返ってみると、師匠は言ってることに一貫性はなかったですよね。「芸人なんか莫迦だから付き合うな」と言う一方で、「噺はきちんと教わってルーツをつけるべきだ」と言うし、芸人の名前を間違えると激怒しましたし。

吉川 普通、あれぐらい偉い師匠はブレないよね。ところが談志師匠はブレまくるし、会う度に言うことが違うこともある。にもかかわらず、「だから信用できない」とならないところが凄かった。

談笑 そうなんです。あの説得力と分析力に丸めこまれるんです(笑)。ですから、没後一年を迎えて、われわれ立川流一門も変わらず結束して行こうねと、基本的ルールを作ろうとした時に、そこが問題になった。弟子たちがいつの時代の師匠についたかによって言われたことが違うんですよ。例えば、われわれの時代は「三年修業して二つ目になれなきゃクビだ」と言われてたのに、兄弟子たちの時代は「最低三年以上やらないと二つ目にはしない」。真逆(笑)。

吉川 師匠は談笑さんの古典落語の改作を喜んでましたね。「蒟蒻問答」改メ「シシカバブ問答」とか。バグダッドを舞台に変えて。

談笑 出てくるのも八つぁんでなくて、ハッサン(笑)。モスクの寺で呑んだくれている場面で、舞台袖からステテコ姿の師匠が現われて「あのな、イスラム教徒は酒呑まないんだ」。師匠が喜びそうなネタだなと思っていましたが、やってる最中にダメ出しされても(笑)。仕方がないから、「これは信心深くないイスラム教徒の噺です」。

吉川 談笑さんが「ガマの油」でやるスペイン語の啖呵売を一緒に聞いていた時、師匠に「おれは朝鮮語でできる」と言われたことがあります。大人げないくらいの負けず嫌いでしたね。どうしても、弟子よりウケたい(笑)。

談笑 私にあれをやれって言ったのは師匠なんです。「外国語は何ができるんだ」「英語とスペイン語です」「ならスペイン語で『ガマの油』をやんな」。それも出鱈目なスペイン語でなく、本国の人が聞いてもおかしくないようにやれ、と。それで私が作ってウケるようになったら、対抗して朝鮮語版「ガマの油」をやりだしたんです。「手っ取り早く売れるのはリズムとメロディだ。理屈よりも、聞いた感じが面白いと売れやすいぞ」とも、よく言ってましたね。

吉川 談志師匠に一貫性がないって話になったけど、落語のテーゼも変わっていきましたよね。二十九歳で書いた『現代落語論』の頃は「伝統を現代に」だったのが、その後、「落語は業の肯定である」と主張して、さらに〈イリュージョン〉を唱え、最晩年は〈江戸の風〉と言い出した。談笑さんが入門した頃は、もうイリュージョンと言ってましたか?

談笑 まだ本人がイリュージョンを手探りで主張し始めた頃です。今でも覚えているのは、入門の翌年かな、国立演芸場でやった「千早ふる」がイリュージョンそのものだったんですよ。大家と八五郎のやり取りがもうぶっ飛んでて自由自在で、袖で聞いてたわれわれ前座は笑い声を殺すのが大変なくらいで、やめちゃった國志舘(現三遊亭全楽)さんが感に堪えて「面白えオヤジだなァ」って呟いたんだけど、まさにその通りでした。内容とかセリフの面白さでなく、談志の人間的魅力が全開になった高座です。ところがお客さんがまだ理解できずに「これ何だろう、うろ覚えなのかな」みたいな反応でシーンとしていたから、後で師匠は不機嫌でしたね。

吉川 ああいう落語は演者の気力体力がないとできないと思う。落語を自分の方に引っ張ってきて、登場人物全員に己れの感情注入をしていく、みたいな落語ですものね。最晩年に江戸の風と言い出したのは、体力がなくてもできる方向に光明を見出していたのかもしれません。

談笑 師匠が江戸の風と言い出した時、イリュージョンとはまるで違う方角から落語を語りだしたわけで、私は少し面食らいました。その変貌ぶりも含めて、師匠は敗戦小僧だったんだなあと改めて思ったんです。敗戦の時、九歳ですよね。小学校の教師の豹変ぶりも見ているわけです。価値観はひっくり返るものなんだ、間違えたら引き返していいんだ、世の中に正義なんてない、確固たるものはない、という考え方が身に染みついていたんじゃないでしょうか。

吉川 うん、『人生、成り行き 談志一代記』で聞き手を務めた時、「終戦による価値観のでんぐり返しで(略)教師を信用できなくなっていましたね。こいつらはニセモノだと思ってた」と言っていたな。

談笑 イリュージョンとか演者自身のキャラクターが大事なんだと言い出した時も、兄弟子たちは驚いて、「だって師匠、演者を出す必要なんかないんだ、上手けりゃいいんだ、って言ってたじゃないですか」って反論した。そしたら、「おれを信じたお前たちが悪い」(笑)。しまいには、「おれが出世したのは、自分の師匠(柳家小さん)の間違いに気付いたからだ」(笑)。

吉川 あんな優しい師匠のことを(笑)。

談笑 ある楽屋で揉めて、小さん師匠が「だいたいお前は生意気なんだ!」と怒ったら、うちの師匠は「生意気かどうかは価値観の違いでね」っていきなり寝技に持ち込んで(笑)、いよいよカリカリきた小さん師匠が「何でそう理屈っぽいんだ」「理屈っぽいかどうかも人それぞれの解釈によるんです」なんて。「だいたい、師匠は昔おれをよく殴ってたよな」「……殴ってない」「殴った」「いや、お前もおれを殴った」(笑)。もう、周囲はどう反応していいかわからない。小さん師匠が帰る時には前座みたいに丁寧に靴べら渡したりするものだから、小さん師匠いよいよ顔赤くして。

吉川 頑固親父をいじりまくる息子だね。

談笑 まったくそう。帰りの車中、師匠は大のご機嫌で、「いろいろ言われたけど、おれも『冗談じゃねえ!』つって負けてなかったよな」。いや、そこまでは言ってなかったけど、もう師匠の中で話ができてる(笑)。

吉川 談志師匠について喋ってると話は尽きないよなあ。

 (よしかわ・うしお/たてかわ・だんしょう)

吉川潮『談志歳時記 名月のような落語家がいた』978-4-10-411807-6