書評

2012年11月号掲載

感動と混乱に辿り着く批評

――佐々木敦『批評時空間』

古川日出男

対象書籍名:『批評時空間』
対象著者:佐々木敦
対象書籍ISBN:978-4-10-332891-9

 感動的な本である。混乱している本である。
 そのどちらも、ある一点から発している。すなわち「二〇一一年の三月十一日に、のちに東日本大震災と呼ばれる災害があった」ことを無視しなかった、ということ。無視しないという態度はむずかしい。この日に対して、あるスタンスを取る人は、つねに他の人間のスタンスを意識する(または想定する)必要が、結局のところは強いられている(あるいは強いられてきた)からだ。そこを抜きに“無視しない”とは、ではいかなることなのか?
 その個人が持続してきた作業の内側に、自らの決断で――それのみで――「その日」を迎え入れる、という、それだけだろう。著者の佐々木敦は、雑誌「新潮」に連載中だった『批評時空間』で、それをやった。
 雑誌掲載時には、僕はこの連載をだいたい拾い読みしていた。読む回は、ちゃんと読み、そうでない回は読まなかった。理由は二つ、この連載の批評の対象は何種類かあり、音楽や演劇、映画、写真等の広範囲に及ぶのだが、それらの対象に興味がないから避けたものがあり(かつ、興味があるからこそ意識的にしろ無意識的にしろ顔を背けたものもある)、震災以降は基本的には「誰かが震災について書いたもの」を読みたくなかったからだ。しかし連載開始時と、終了時には視線が惹きつけられるように読んでいて、その時に感じた感慨がある。
 この連載は小説に近づこうとしているのではないか?
 対象を、ある冷めた「対象」として見る時、たとえば批評が成立するのだと――世間的には――誤解されている気がする。だが、そうだろうか。ある種の小説家は、対象=素材を、ある冷めた「対象」として扱い、だからこそウェルメイドな作品が成立する。しかし素材を捌きかねて、何かが剥き出しになる瞬間に、僕は小説が生まれるのだと感じる(ちなみに評者の僕は小説家である)。佐々木敦は、この『批評時空間』内で異様なほど文体を操作する。その手付きにはウェルメイドを志向する何かが垣間見えそうになるが、これは表層に過ぎない。本書ちゅうの言葉をアレンジして記すならば、
「文体とは、自我の代用物ではない。それは思考が通過する機構でしかない」
 のだが、しかしその機構を選択する(毎度毎度選択している)自我とは何か? 何者なのか? そして、その何者かは、この『批評時空間』の随所に滲み出している。佐々木敦は、ジョナス・メカスの日記で「「私」という一人称と「彼」という三人称が混在して」いると書いており、が、同じことは本書の第五章でも起きている。あるいは起きていることを見せかけている(のだということを見せかけている)。が、そうやって自称をまっぷたつに分離させた瞬間に、書物の彼岸にいる「私」は浮かぶのだ。ここに浮上したものは、いわば剥き出しの混乱、すなわち小説である。
 しかし、それがそうであることは、二つの脈絡から暗示されている。一つめ、佐々木敦は早い段階で「僕はかなり徹底した反=神秘主義者です」と断わっている。無神論者が神を意識しないかぎり無神論に走れないように、ここには「ある背景」がある。また、二つめ、美醜という価値判断を説く件で、「その場合の「醜」も「美」の範疇に属する」と語る。彼岸はある。しかしながらまずは他者のスタンスを意識せざるを得ない。あるいは想定せざるを。が、それでも連続した時間――ここでは「(批評)時空間」――の内側で、ある決断を成せば、彼岸は結局のところ「その時間=此岸の内側」に包含される。すると現われるのは、私だ。
 その私とは、小説だ。
 これを「批評をし続ける」ことで達成したところに本書の感動はあり、混乱もまた、ある。が、この日本に混乱していない私などいるのか? たとえいるのだとしても、僕はそれらに/彼らに興味がない。

 (ふるかわ・ひでお 小説家)

最新の書評

ページの先頭へ