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書評・エッセイ

『サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて』刊行記念特集

「わたし」の内奥を探る旅

――田口ランディ『サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて』

今福龍太

 自分のかたわらに著者の影を、そのしずかな息づかいを感じているのであれば、人はすでにこの書物の芯に触れている。その芯の繊維質のもろく柔らかい手ざわりがふと感じられるまでになれば、著者はもう読者のなかにいる。読者とともに問い、考えている。親密な知り合い、分身、ゆえなき偶然の同胞(はらから)。たしかに私はこの声を、この苦しい息を、この額の熱を自分の内にすでに知っている。自分の一部として。
 震災後の著者の精力的な行動の陰で実践されていた、屈折した内面的な旅こそが本書の主題だ。放射線量の高い地域にひとり住みつづける女性に会いにゆき、その家と人が放つ堅固な存在感にうたれて沈思する。原子力というもっとも対話の難しい問題について専門家も交えて議論を繰り返しながら、人間同士の「ダイアローグ」(ギリシア語の原義は「境界を越えて話す」こと)そのものの可能性を模索する。ときにはイタリアでの講演で、放射能汚染に曝された当事者として外向的な仮面をかぶって語ることに疲れ果て、小さな少女のような沈黙のなかに押し黙る。震災と時を同じくして亡くなった著者の義母、そして義父の、それぞれに深い苦悩に満ちた単独の生の歴史を抱えながらの最期を看とることで著者のもとに訪れる、死の平等性という確信。
 サンカーラとは、人間が負っているこの世の諸行。わたしという意識が万象の因縁の和合としてあることの不思議。著者は、戦争や原発や暴力や死についてひたすら考えつづけることの意味を、「あなたが考え感じたことは、あなたの肉体が消えた後も残る」からだ、という。「人間の微細な感情は肉体が消えたあとも残響のように残り、すべての人間のなかに染み込んでいく」からだ、と。
 自己と他者がこうしてつながっているのであれば、そうかんたんに「自分」をなにものかに譲ることはできない。なにものかとは世間であり、社会であり、抽象的に正義とか良識とか呼ばれているものでもある。それは集団性において意味を与えられているので、自我の主張とはしばしば厳しく対立する。「わたし」が攻撃され瓦解する前に、人々は集団的なものに「わたし」を譲りあたえ、幻想の共同意識を対価として得て安堵する。形式的で便宜的でしかない帰属意識。そんなとき、過激な孤独に立つことはエゴイズムだろうか。いやそうではない。「わたし」の内奥を問いつづける孤独こそが、自分が自分だけのものではないことを気づかせ、自分の中にいる他者の魂を予感させるからだ。
 危機の時代、人間の心の奥底で、すでに個人は集団のなかに溶解しようとしている。体内にあらわれる暴徒、この不穏な群衆によって、すでに個人の心のガラス窓は叩き割られているのかもしれない。精神の均衡も理法も、この群衆によって転覆させられているのかもしれない。「わたし」の内奥を探り、修復する著者のひたむきさはだからこそ貴重だ。
 私たちが、著者とともに見ている淡い、かすかな希望の光景。苛烈な「出来事」の周囲に漂う霧のようなヴェールの襞のあわいで鋭く発光している、予兆の滴。そこでは、逝く春をまえに魚の目に泪(なみだ)が滲んでいる。いやそこでは、魚の目が泪なのである。目から泪が流れるのではなく、泪こそが目を目という器官に完成させるのである。人が、動物が、魚が、そしておそらくは木々が目をもつのは、泪を流すため。そのときの泪は、あまりに生命の存在、魂の存在にとって本質的なために、もはやたんなる悲嘆とも絶望ともかかわりのない、自然の不可欠な生命力の発露のあかしそのものとなる。いまもっとも必要な泪。
 そんな泪としての目を、わたしは著者の影のかたわらにいて感じている。瞳はじっと見ひらき、強い希求とともに泪を流している。温かく、柔らかく、優しい塩の味がする、ものごとの深みを見つめようとする泪である。泪としてのわたしであり、あなたである。

 (いまふく・りゅうた 文化人類学者)

田口ランディ『サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて』978-4-10-462202-3